クシャーナ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クシャーナ朝(-ちょう 英:Kushan 漢:貴霜)は、古代インドから中央アジアにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えた王朝である。日本語表記は一定せず、クシャナ朝、クシャーン朝、クシャン朝、クシャン帝国とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 大月氏
紀元前2世紀に匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民、月氏はバクトリアに定着した。これを通例、大月氏と呼ぶ。漢書西域伝によれば大月氏は休密翕侯、貴霜翕侯、雙靡翕侯、肸頓翕侯、高附翕侯[1]の五翕侯[2]と呼ばれる部族が分かれて統治していたという。
このうち最も強大だったのは貴霜翕侯(クシャーナ)であった。大月氏の諸侯はそれぞれコインを発行していたが、貴霜翕侯が発行したコインは他の諸侯の発行したコインに比べ数も多く、大型のコインは貴霜翕侯の物しか鋳造されなかった。
[編集] クシャーナ朝の成立
貴霜翕侯の存在を示す最も古い証拠はヘラウス(またはセナブ)と言う名の支配者が発行したコインである。これには「クシャーナ」の名と共に彼の名前が刻まれている。しかし年代の確定や解釈などについては諸説紛糾している状態であり、このクシャーナ「最初」の支配者についての具体像は全くわかっていない。1世紀初頭から半ばにかけて、貴霜翕侯は族長クジュラ・カドフィセス(丘就卻)の下で他の四翕侯を全て征服して王を号したと後漢書西域伝には記されており、一般にこれをもってクシャーナ朝の成立と見なされる。クシャーナ族自体は大月氏の一派であるイラン系の集団であるとも、土着のイラン系有力者を母体にするともいわれる。
クジュラ・カドフィセスはカブール(高附)を支配していたギリシア人の王ヘルマエウス(又はヘルマイオス)と同盟を結び共同統治者となったが、やがてヘルマエウスを倒してカブールの支配権を単独で握った。[3]さらに濮達とケイ賓(罽賓 ガンダーラ?)を征服しパルティア領(インド・パルティア王国)の一部をも征服した。当時この地域で勢力を持っていたのはインド・パルティア王国の王ゴンドファルネスであったが、クジュラ・カドフィセスは彼と争ったか、もしくは彼の死(西暦50年頃?)による同王国の弱体化に乗じてその領土の征服を行ったと言われている。いずれにせよ、クジュラ・カドフィセスのコインにはゴンドファルネスなどインド・パルティア王が発行したコインに重ねて打刻したものが見られることから、クジュラ・カドフィセスとゴンドファルネスや、彼の後継者アブダガセス1世などがほぼ同時代を生きていたのは確実である。
クジュラ・カドフィセスの子ヴィマ・タクトと、ヴィマ・タクトの子ヴィマ・カドフィセスは、北西インドの征服に成功した(北西インド征服時にはまだクジュラ・カドフィセスが生きていたという説もある)。最近の研究では、ヴィマ・タクトの時代に、北西インドと中央インドの一部、そしてバクトリア北部がクシャーナ朝の支配下に入ったといわれている。ヴィマ・タクトとヴィマ・カドフィセスは北側からバクトリアに通じる交通の要衝に関門と要塞を多数構築し、大国としてのクシャーナ朝の基盤を構築した。そしてバクトリア地方の防御のためにカラルラングと呼ばれる特殊な地位を持った総督が配置された。また後漢書によれば北西インドの統治のために将軍が置かれたとあるが、この将軍とは後に西クシャトラパをはじめとした独立勢力を構築することになるクシャトラパであると考えられる。
ヴィマ・タクトはその支配領域に統一したコインを発行した。彼のコインにはギリシア語で「ソテル・メガス(偉大なる救済者)」と言う称号が刻まれている。クジュラ・カドフィセスのコインが各地の古い支配者が発行したコインをまねたものであったのに対し、ヴィマ・タクトによる新式のコイン導入は一体性を持った帝国としてのクシャーナ朝が確立していったことを暗示する。
[編集] カニシカ王と後継者
ヴィマ・カドフィセスの息子(異説あり、王朝交代説を参照)カニシカ1世の時(2世紀半ば)、クシャーナ朝は全盛期を迎えた。都がプルシャプラ(現:ペシャワール)におかれ、独自の暦(カニシカ紀元)が制定された。
カニシカはインドの更に東へと進み、パータリプトラやネパールのカトマンズの近辺にまで勢力を拡大した。また、カニシカの発行したコインはベンガル地方からも発見されているが、これを征服の痕跡と見なせるかどうかは定かではない。ともかくも、こうしたインド方面での勢力拡大にあわせ、ガンジス川上流の都市マトゥラーが副都と言える政治的位置づけを得た。
カニシカはその治世の間に仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラ等を中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。この時代に史上初めて仏像も登場している。
軍事的にも文化的にも隆盛を誇ったカニシカ王の跡を継いだのは、恐らくカニシカの息子であろうと言われているヴァーシシカ王である。しかし、ヴァーシシカ王以後、クシャーナ朝に関する記録は極めて乏しい。ヴァーシシカは最低でも4年間は王位にあったことが碑文の記録からわかるが、その治世がいつ頃まで続いたのか全くわかっていない。
ヴァーシシカに続いて、やはりカニシカ王の息子であると考えられているフヴィシカが王位についた。フヴィシカ王は40年前後にわたって王位にあったことが知られている。フヴィシカに関する碑文などがかなり広範囲から見つかっており、カニシカ王の死後は記録が乏しいとはいえ、クシャーナ朝自体は強勢を維持していたと考えられる。
3世紀頃、フヴィシカの跡を継いでヴァースデーヴァ1世が王位についた。彼の治世に、三国時代の魏に使者を派遣した記録が残されている。ヴァースデーヴァというインド風の王名は、この時期のクシャーナ朝が極めて強くインド化していたことを示す。貨幣などの図案にも、インド土着の様式が強く現れるようになっている。
ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝の王シャープール1世と戦って完全な敗北を喫した。以後クシャーナ朝はインドにおける支配権を失い、残された領土はサーサーン朝に次々と制圧された。クシャーナ朝はなおもカブール王として存続していたが、バハラーム2世(276年 - 293年)の時代にはサーサーン朝の支配下に置かれるようになった。
クシャーナ朝の旧領土はサーサーン朝の支配下においてはクシャーン・シャー(クシャーナ王)と称するサーサーン朝の王族によって統治された。これは通例クシャーノ・サーサーン朝(クシャノササン朝)と呼ばれる。クシャーノ・サーサーン朝が発行したコインなどはサーサーン朝様式よりもクシャーナ朝の様式に近く、恐らくは多くの面においてクシャーナ朝の要素を継承したと考えられる。このようにクシャーナ朝の権威は滅亡した後も長く現地に残ったのであった。
[編集] 文化
[編集] 王号
クシャーナ朝はユーラシア大陸の中央部の広い領域を支配したため、各地の文化の大きな影響を受けた。その文化は包容的、融合的性格を持ったといわれており、特にその特徴は王の称号に現れている。
例えばカニシカ王の残した碑文の中には「シャーヒ、ムローダ、マハーラージャ、ラージャティラージャ、デーヴァプトラ、カイサラなるカニシカ」と記す物がある。これはカニシカが使用した称号を羅列したものであるが、シャーヒ(Shahi)は月氏で昔から用いられた王の称号であり、ムローダ(Muroda)はサカ人達の首長を表す語である。マハーラージャ(Maharaja)は言うまでも無くインドで広く使われた称号であり大王を意味する。ラージャティラージャ(Rajatiraja)は「諸王の王」と言うイラン地方の伝統的な帝王の称号をサンスクリット語に訳したものであり、デーヴァプトラ(Devaputra)はデーヴァ(神、漢訳では天と訳される)とプトラ(子)の合成語であって中華皇帝が用いた称号「天子」をサンスクリット語に訳したものである。カイサラ(Kaisara)はラテン語のカエサル(Caesar)から来たものでローマ皇帝の称号の一つである。カニシカ王に限らず、クシャーナ朝の王達は世界各地の王の称号を合わせて名乗る事を好んだ。
[編集] 美術
カニシカ王のとき、あつく仏教を保護したため、仏教芸術が発達した。(ただし、王家の間ではゾロアスター教などイランの宗教も崇拝されていた。)プルシャプラを中心とするガンダーラで興ったため、ガンダーラ美術と呼ばれる。かつてガンダーラ付近をギリシア系のグレコ・バクトリア王国が支配していたため、発想・様式・手法にギリシア的要素が濃いのが特徴で、その様式は日本にも影響を与えた。
この隆盛を極めたガンダーラ美術の成果の中でも最も重要なものは仏像の登場である。従来の仏教美術において仏陀の姿を表現することは意識的に回避されてきた。仏教説話を表現する際、仏陀は法輪や仏塔、仏足跡などで象徴的に表されるだけであったが、クシャーナ朝支配下のガンダーラとマトゥラーにおいてついに、仏陀を人間の姿で表す仏像が誕生したのである。マトゥラーではガンダーラの仏像とはやや赴きを異にする仏像が多数制作されている。こちらの仏像はギリシア的要素が少なくインドの伝統美術の影響が強いといわれている。
仏像の誕生には神を人間の姿で表現するギリシア人の影響が強いといわれているが、ガンダーラやマトゥラーなど、当時クシャーナ朝が支配した領域で広く仏像が制作され始めたことは、仏像の誕生にクシャーナ人自体も深く関わっていたことを示唆する。なお、ガンダーラとマトゥラーのどちらで先に仏像の制作が始まったのかはわかっていない。
[編集] 言語
クシャーナ人の使用した言語は、中期イラン語で東イラン語に属すと考えられるバクトリア語である。アラム系文字で筆記される場合が多いイラン語としては唯一ギリシア文字系で筆記された。既存のギリシア文字24個に加え、アイスランド語の「Þ」に形状の似た[š]の音価を持つ文字を加えた25字が用いられた。現在残されている最古の資料はクジュラ・カドフィセスの子と目されるヴィマ・タクト王の銘になる碑文である。つい最近までバクトリア語の研究は貨幣研究と若干の碑文以外に資料が無く、殆ど謎の言語であったが、近年アフガニスタンで碑刻資料と皮革書簡文書が大量に発見された事によって飛躍的に解明が進んだ。
[編集] 経済
クシャーナ朝の領土は、同時代に中央インドで繁栄を迎えてきたサータヴァーハナ朝などと同じくローマ帝国との貿易によって著しい繁栄を迎えていた。かつてクシャーナ朝が北西インドを征服する以前、この地域の貨幣経済は衰退期を迎えていた。原因は知られていないが、北西インドでは銀が不足し、インド・パルティア人やサカ人の諸王朝が発行する銀貨は極度に品質の悪いものとなっていた。
しかし、クシャーナ朝が北西インドを支配した時代、即ちヴィマ・タクトとヴィマ・カドフィセスの治世以降、彼らは盛んに金貨と銅貨を発行し、特に北西インドで作られた金貨は質・流通量ともにインド古代史上最高のものとなった。この金貨発行の背景にあったのが西方のローマ帝国の経済的繁栄であり、それに向けて輸出される華奢品であった。ローマやインドの商人によってローマ帝国領へ向けて絹、香料、宝石、染料などが輸出された。これらの商品はローマでは原価の百倍もの価格で売れ、代金として膨大な量の金がクシャーナ朝に齎された。プリニウスは当時インド人がローマの金を年間5千万セステルティウス持ち去っていると記しているが、これにはクシャーナ朝に齎された分も含まれているであろう。
クシャーナ朝にとってローマとの貿易がいかに重要なものであったかは、彼らが発行した金貨の単位からもわかる。クシャーナ朝は金貨の単位をローマの金貨単位にリンクさせており、その金貨は正確にローマの2アウレウス分の重量を持っていた。さらにローマのデナリウスはディーナーラとして、その通貨単位がクシャーナ朝に取り入れられた。
※参考:オクタヴィアヌス時代のローマの通貨交換レート
- 1アウレウス(金貨) = 25デナリウス(銀貨)
- 1デナリウス(銀貨) = 4セステルティウス(黄銅貨)
- 1セステルティウス(黄銅貨) = 4アス(青銅貨)
[編集] クシャーナ史の論点
[編集] 王朝交代説
クシャーナ朝の王統は長く貨幣銘文などによる断片的な記録に基づいて復元されており、不明点が多い。クシャーナ朝の王統復元について長く支持されてきた説がクジュラ・カドフィセスとヴィマカドフィセスの属する王朝と、カニシカ以後の王朝は別の王朝であるとする説、即ちカニシカ王による王朝交代説である。
これはカニシカ以後、カドフィセスからイシカ系列に王名が切り替わっていることや、カニシカが独自の暦を定めていること、両カドフィセス王時代のコインではギリシア語の称号をギリシア文字で、プラークリット語の称号をカローシュティー文字で、併記する様式であったのに対し、カニシカ王以後はバクトリア語の称号をギリシア文字で記したものに変化していることなどを根拠としている。
これとあわせて、チベットの伝説にホータンの王子ヴィジャヤキールティがカニカ(Kanika)王とグザン(Guzan 恐らくはクシャン、クシャーナ)王とともにインド遠征を行ったという物があること。漢訳仏典の中にカニシカがホータン出身であると解せるものがある。このことからカニシカが小月氏の出身であるとする説もある
ところが近年新たにカニシカ王の碑文が解読され、クシャーナ朝の歴史について多くの新事実が明らかとなった。この碑文は1993年にアフガニスタンのラバータクで偶然発見されたもので、バクトリア語で記された1200字あまりの文書であり、クシャーナ朝時代の物としては最も長文の記録の1つである(ラバータク碑文)。内容はこの地方のカラルラッゴ(総督)であったシャファロに対して、カニシカ王の祖先の彫像を納める神殿を建設することを命じたことが記録されたものであった。この結果、カニシカ王とそれ以前の王との間に血縁があったことが判明した。
この碑文の解読によって、曽祖父クジュラ・カドフィセス、祖父ヴィマ・タクト、父ヴィマ・カドフィセス、そして碑文を作らせたカニシカの4名4世代の王統が判明した。特にヴィマ・タクト[4]は従来全く知られていない王であったが、彼の存在が明らかになったことによって初期クシャーナ朝の歴史に本質的な修正がもたらされた。これまでクシャーナ朝時代に発行されたコインの中で、ソテル・メガスという称号のみが記されたタイプの物がクジュラ・カドフィセスによるものか、ヴィマ・カドフィセスによるものかが論じられてきたが、その多くはヴィマ・タクトのものであると考えられるようになり、クシャーナ朝の大幅な勢力拡大が彼の時代に行われた可能性も考えられている。
[編集] 大月氏とクシャーナ朝
貴霜翕侯(クシャーナ族)が元々大月氏に属し、大月氏の他の翕侯を従えた後、クシャーナを国号として王と名乗ったという後漢書の記録や、伝統的な月氏の王の称号を用いたことからもわかるように、大月氏とクシャーナ朝は多分に連続性の強い政権であったと考えられる。
中国ではクシャーナ朝が権力を握った後も、その王を大月氏王と呼び続けた。後漢書には以下のようにある。
月氏自此之後,最爲富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。
(クジュラ・カドフィセスのインド征服)以後、月氏は最も富み盛んとなった。諸国は彼をクシャーナ王と呼んでいる。漢では古い称号を用いて大月氏と呼んでいる。
また、中国の三国時代にヴァースデーヴァ1世(波調)が魏に使節を派遣した際、魏はヴァースデーヴァに対し、親魏大月氏王の金印を贈っている。これは倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印の例であることから比較的良く知られているが、3世紀に入っても中国ではクシャーナ朝が大月氏と呼ばれていたことを示すものである。
しかし、大月氏とクシャーナ朝を同一の物と見なしていいかどうかには様々な立場がある。ソグディアナやホラズム地方の大月氏系諸侯は、クシャーナ朝とは別に独立王国を形成していたことが知られており、これらの大月氏系諸国をクシャーナ朝が征服した痕跡は現在まで一切発見されていない。
[編集] 歴代王
- クジュラ・カドフィセス(カドフィセス1世 - 80年頃、後漢書によれば80歳以上まで生きた)
- ヴィマ・タクト(1世紀後半)
- ヴィマ・カドフィセス(カドフィセス2世 2世紀前半)
- カニシカ1世(2世紀半ば)
- ヴァーシシカ(2世紀半ば)
- フヴィシカ(2世紀後半)
- ヴァースデーヴァ1世(3世紀前半)
- カニシカ2世(3世紀前半 一時ヴァースデーヴァ1世と共同統治?)
- サーサーン朝の征服
[編集] 関連項目
[編集] 注
- ^ 後漢書西域伝では高附翕侯の代わりに都密翕侯が上げられている
- ^ 翕侯はヤブグ(Yabgu)、ヤヴガ(Yavuga)と呼ばれた称号の音訳であると言われている。
- ^ クジュラ・カドフィセスによるカブール支配の確立は、彼が翕侯の地位についた後の出来事である。それはクジュラ・カドフィセスがヘルマエウスと共同で発行したコインの中にヤヴガ(Yavuga)という称号が刻まれている物があることから知られる。
- ^ ヴィマ・タクト(Vima takto)の名前は碑文の摩滅によって正確にはわからず、名前の最後を「to」と読む説は確定的ではない。
[編集] 参考文献
- 『世界の歴史3 古代インドの文明と社会』(山崎元一 中央公論社 1997年)
- 『中村元選集[決定版] 第7巻 インド史III』(中村元 春秋社 1998年)
- 『アイハヌム 2002』 (加藤九祚 東海大学出版会 2002年)
- 『アイハヌム 2003』 (加藤九祚 東海大学出版会 2003年)
- 『NHKスペシャル 文明の道 2 ヘレニズムと仏教』 (前田耕作他 NHK出版 2003年)
- 『世界歴史叢書 アフガニスタンの歴史と文化』(フィレム・フォーヘルサング著 前田耕作 山内和也監訳 明石書店 2005年)
[編集] 外部リンク
- 古代アフガニスタンのバクトリア語文書 古代オリエント博物館で行われたバクトリア語に関する講演の記録。ラバータク出土の新史料にも触れられている。東京大学文学部言語学研究室サイト内