カール・リッター
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カール・リッター(Carl(またはKarl) Ritter 1779年8月7日-1859年9月28日)は、ドイツの地理学者。教育家。近代科学としての地理学の方法論の確立につとめ、地理学に触れる上で欠かせない人物である。その業績は、同じドイツで博物学者として活躍したアレクサンダー・フォン・フンボルトと並び「近代地理学の父」と称えられている。
[編集] 生涯
ドイツ・クベントリングブルグに当地の医者の三男として生まれた。しかし、4歳の時父親が死去。経済的な苦境に陥った。著名な教育学者・ザルツマンが経営するシュネッフェンタール学園に学費免除で入学する事が出来た。既に地理学に興味を抱き、紹介されたフランクフルトの名家・ホールベルク家で家庭教師をしながら、1796年にハレ大学に進学した。進学後も引き続きホルベーク家での家庭教師が続き、絶大な信頼を得る。フランクフルトでの名家であったホルベーク家での信頼は、リッターを著名人に仕立てあげていった。また、この頃から教育学にも興味を抱き、スイスのペスタロッチーを訪問。リッターの教育思想にも影響を与えた。この時代は、地理学のみならず地質学や博物学からも影響を受けた。近代地理学の父であるフンボルトに出会ったのも1807年にこのフランクフルトの地である。1813年リッターが34歳になるまで当家で家庭教師を続けた。家庭教師の間、彼は地理学の研究にも勤しめていた。ホルベーク家の子どもも大きくなり、任期満了となったリッターは、ゲッティンゲン大学へ。ここでも地理学の研究に没頭し、当大学の時代にリッターの地理学者としての名声を高めた大著「地理学」を初めて発表。地表とその住民の関係を説いたその著作は、近代学問としての地理学の確立にも欠かせない存在である。以降没するまで版を重ね、全四巻となるはずだったこの大著は第三巻までで終わってしまったところでリッターの死去により終わってしまった。別の言葉で言えばリッターのライフワークだったともいえる著作である。
1819年には再びフランクフルトへ戻り当地で教師になったが、同年にはゲッティンゲンで知り合ったリリー・クラマーと結婚。リッターとは、16歳年下であった。翌1820年にはベルリン大学から招聘があり、当地へ移る。以降没するまで当地で地理学を講じ、ドイツのみならず世界中にリッターの名を響かせた。ベルリン大学は、世界で初めての大学での地理学の講座がおかれた大学であり、専門的な地理学者の養成をする史上初めての講座である。リッターは、そこの初代教授になった。従ってリッターは歴史上初めての地理学教授の肩書きを持つ人物となる。リッターの講義は、ドイツのみならずフランスやロシアからも受講生が来て、その思想は各国に持ち帰られ、近代地理学の発展に多大な寄与となった。地理学者に必須の調査旅行は、フンボルトと比べると範囲は狭く「書斎地理学者」としての色合いが強いがそれでも、リッターの訪問地はヨーロッパのほぼ全域に及んでいる。彼の未完の大著「地理学」のメインにもなっているアジアへはほとんど行っていないのも興味深い。従って、彼の地理情報は図書館から得たものが大きい事が指摘できる。また、地理学方法論にとって欠かす事の出来ない「一般比較地理序説」は1852年とリッター70歳の時の著作である。高齢になるまで当地で地理学を講じていたが、1859年に病に伏し、9月28日に死去。80歳だった。折りしも同年5月にリッターとともに、近代地理学の確立につとめたフンボルトも死去しており、ドイツ地理学界は相次いで巨星を失ったことになる。