カーソン・マッカラーズ
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カーソン・マッカラーズ(Carson McCullers、本名:Lula Carson Smith、1917年2月19日 - 1967年9月29日)はアメリカの作家。彼女はエッセイや詩だけでなく、小説、短編、戯曲を書いた。処女小説「The Heart is a Lonely Hunter」ではアメリカ南部を舞台に、社会に順応できない人間や排除された人間の魂の孤独を探究した。他の小説も同様のテーマを扱い、南部に舞台を置いている。
目次 |
[編集] 幼年期
1917年ジョージア州コロンブスの中産階級の家にルーラ・カーソン・スミスが誕生した。彼女の母は、大農園所有者で南部同盟の英雄の孫娘である。父はフランスユグノーの血すじの時計職人で宝石商だった。彼女は5歳からピアノのレッスンを受け、15歳のときに父からタイプライターをもらった。
2年後、彼女はピアノの勉強のため、ニューヨークのジュリアード音楽院の音楽部門に送られたが、授業料のために取っておいたお金をなくしてしまって、1度も学校へは通わなかった。下働きをしながら、ワシントン・スクウェア・カレッジと、コロンビア大学の夜間クラスでテキサス出身の作家ドロシー・スカボローのもとで創作を学んだ。作家になる決意をし、1936年自叙伝「Wunderkind」をストーリー・マガジン(Story magazine)から出版した。音楽の才能がある人物と思春期の不安が描かれている。
[編集] 結婚と仕事
1935年彼女はノースカロライナ州に移り、1937年にリーブス・マッカラーズと結婚した。そこで初の小説である「The Heart is a Lonely Hunter」が書かれた。南部ゴシックの傑作である。このタイトルは、彼女の編集者がフィオナ・マクラウド(Fiona MacLeod)の詩「The Lonely Hunter」からとってきて提案したものだった。この小説はアンチ・ファシスト本として理解されている。合計で彼女は8冊の本を出している。23歳のときに書かれた「The Heart is a Lonely Hunter」(1940)、「Reflections in a Golden Eye」(1941)、そして「The Member of the Wedding」(1946)は最もよく知られている作品である。短編小説集「The Ballad of the Sad Cafe」(1951)もまた、孤独や報われない愛の痛みを描いている。彼女はニューヨークのサラトガ・スプリングにあるYaddo(アーティストのコミュニティー)の同窓生だった。
「The Heart is a Lonely Hunter」は1968年にアラン・アーキン主演で映画化された。「Reflectiions in a Golden Eye」はジョン・ヒューストン監督で制作され(1967)、マーロン・ブランドとエリザベス・テーラーが出演した。のちにヒューストン監督は次のように語っている。「わたしが初めてカーソン・マッカラーズに会ったのは、第二次大戦中のことで、ニューヨークの北部にポーレッド・ゴダードとバージェス・メレディス(Burgess Meredith : 俳優)を訪ねたときだ。彼女はすぐ近くに住んでいて、ある日散歩していると、彼女は自宅の戸口からわたしたちを歓呼して迎えてくれた。そのとき彼女は20代前半だったが、すでに最初の(脳)卒中を起こしていた。……(その様子は)麻痺ではなく、むしろ臆病な動物の震えだった。しかし、カーソン・マッカラーズが立ち向かった人生の中で、その態度には怯えも弱さもなかった……」。
[編集] 結婚の終り、労苦
彼女の結婚はうまくいかなかった。彼ら夫婦はどちらもホモセクシャルの関係だった。マッカラーズとリーブスは1940年に別居し、1941年に離婚した。彼女がリーブスと別れたあと、ニューヨークへ移り、ハーバース・バザーの編集者ジョージ・デイビスと同居した。ブルックリンで彼女はアートコミュニティーのFebruary Houseのメンバーになった。彼らの友人にはW.H.Auden、ベンジャミン・ブリテン、Paul and Jane Bowlesがいる。第二次世界大戦後、彼女はほとんどパリで過ごした。このころの彼女の親しい友人にはトルーマン・カポーティ、テネシー・ウィリアムズがいる。
1945年、マッカラーズとリーブスは再婚した。3年後、彼女が鬱病のとき、自殺を企てた。1953年、リーブスは彼女に心中しようと説得したが、彼女は逃げだした。彼女が彼のもとを去ったあと、彼らが住んでいたパリのホテルで、リーブスは睡眠薬の過剰摂取で自殺した。マッカラーズのほろ苦い戯曲「The Square Root of Wonderful」(1957)では、このトラウマ体験の調査を試みている。「The Member of the Wedding」(1946)は女の子の、兄弟の結婚のときの気持ちを描いている。この小説のブロードウェイ上演(1950-1951)は成功を収め、2007年9月にはロンドンのYoung Vicにてプロデュースされた。
マッカラーズは生涯にわたっていくつかの病気とアルコール依存症に苦しんだ。彼女は15歳にリューマチ熱にかかり、若いころから卒中を起こしていた。31歳のときには、左半身がすっかり麻痺していた。卒中の結果として生じる脳の大出血のあと、1967年9月29日ニューヨークのNyackで亡くなった。死までの数ヶ月間、彼女は未完の自伝「Illumination and Night Glare」(1999)を口述した。
[編集] 批評
- マッカラーズと、そしてもしかするとウィリアム・フォークナーはD.H.ロレンスの死以来、独創的な詩的感性をもった唯一の作家かもしれない。わたしはフォークナーよりもマッカラーズが好きだ。彼女は彼より明瞭に書いている。わたしはD.H.ロレンスよりも彼女の方が好きだ。彼女はメッセージをもっていない。– グレアム・グリーン
マッカラーズの作品はよく「南部ゴシック」と言われるが、彼女は南部を離れたあと、有名な作品を作り出した。アイルランド出身の批評家で作家のTerence de Vere Whiteとの討論でマッカラーズは次のように述べている。「書くことは、わたしにとって、神を探すことだ」。アメリカ人作家のゴア・ヴィダルは彼女の作品を「われわれの2流文化(アメリカ文化の意)のなかの満足のいく、いくつかの業績の1つである」と賞賛している。他の批評家は、彼女の著作のなかに悲喜劇的な、また政治的な要素を発見している。
[編集] 作品
[編集] 小説
- "The Heart Is a Lonely Hunter"(1940)
- "Reflection in a Golden Eye"(1941)
- "The Member of the Wedding"(1946)
- "Clock Without Hands"(1961)
[編集] 他の作品
- "The Ballad of the Sad Cafe"(1951) 短編集。
- "The Square Root of Wonderful"(1958) 戯曲。
- "Sweet as a Pickle and Clean as a Pig"(1964) 詩集。
- "The Mortgaged Heart"(1972) 死後に妹リタに編集された。
- "Illumination and Night Glare"(1999) 未完の自伝。死後に出版。
[編集] 参考文献
- 『孤独な狩人−−カーソン・マッカラーズ伝』 ヴァージニア・スペンサー カー,浅井明美訳 国書刊行会 1998/3
補講:2008年5月12日(月)02:52 UTCの版は[en:Carson McCullers](09:47, 6 May 2008 UTC)の翻訳