オルシュティン
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オルシュティン(Olsztyn;オルシチン 独語ではAllenstein アレンシュタイン)は、ポーランドヴァルミア・マズールィ県の県都で一番大きい都市。主な文化・文教・経済活動の中心や一般官庁ばかりでなく、重要な鉄道連絡駅及び交通の要所でもある。
ヴァルミア・マズールィ大学、プラネタリウム、天体観測館、コンサートホールなどがある。また、オルシュティンにはミシュランの大規模タイヤ工場がある。
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[編集] 歴史
町の建設は、14世紀にドイツ騎士団の手で始まった。町のドイツ語名アレンシュタインは、ドイツ語で「アレ川の石(城)」を意味する言葉に由来する。オルシュティンはアレンシュタインをポーランド語読みしたものである。
1454年、町はドイツ騎士団に反旗を翻し、1463年以降、ポーランド王の庇護下に入った。1466年以降、町はポーランド王の封臣となったプロイセン公国に属する。1516年から21年にかけて、コペルニクスが町の防衛の任にあたる役人として、この町で勤務した。
1655年から1708年にかけてスウェーデンの支配を受けたあと、1710年には、ペストの流行により人口が激減した。1772年、第一次ポーランド分割に伴い、町はプロイセン王国に併合された。当時の人口は1,770人であった。
第一次世界大戦後の1920年、ポーランドの復活に伴い、町の帰属を決定する住民投票が行われ、東プロイセンの一部としてドイツ領に留まることが決定した。オルシュティンでは、マズール人(15世紀以降に移住してきたポーランド系住民)の多くは、ドイツ系住民と同じ新教徒となっていたため、カトリックのポーランドを避け、ドイツ残留に投票した者も多かった。
第二次世界大戦では、1945年1月、ソビエト軍が町に迫る中、ドイツ系住民はドイツ本国方面への逃亡を開始した。同22日、町にソビエト軍が進入し、報復的な町の破壊を行った。
1945年8月2日、ポツダム会談の結果に従い、町はポーランド領となり、オルシュティンが正式名称となった。町にとどまっていた残りのドイツ系住民は追放の対象となり、新国境(カーゾン線)以東の旧ポーランド領から、新たな移住者を迎えた。これらの住民の移動に加え、冷戦下にあって、共産主義体制下で住民の生活が困窮したことから、マズール人など戦前からの住民の一部には、これらの人々を移住の有資格者とした西ドイツへの移住を選択する現象が見られた。
[編集] 著名な出身者
- ニコラウス・コペルニクス:1516年から1521年まで住んだ。
- エーリヒ・メンデルゾーン:建築家
[編集] 姉妹都市
[編集] ギャラリー
[編集] 外部リンク