エルネスト・アンセルメ
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エルネスト・アンセルメ(Ernest Ansermet, 1883年11月11日 - 1969年2月20日)スイスの指揮者・数学者。
スイス西部のフランス語圏にあるレマン湖畔の町ヴヴェイに生まれた。父は幾何学の学者であったこともあり、彼もパリのソルボンヌ大学 とパリ大学 で数学を学んだ後、数学者としてローザンヌの大学の数学の教授になった。
しかし、音楽好きの母親の影響から、ローザンヌで3歳年上の新進作曲家であったエルネスト・ブロッホについて音楽の勉強をはじめた。作曲家としてもいくつかの作品を残している他、 ドビュッシーの『6つの古代碑銘』をオーケストラ編曲し、譜面はデュラン社から出版されている。
数学者として生きるべきか音楽に進むべきか一時は迷い、1909年にベルリンを訪れて、指揮者のニキシュとワインガルトナーに助言を求め、ようやくアンセルメは指揮者としてたつ決心を固めた。
1910年、アンセルメはモントルーで指揮者としてデビューした。この時のプログラムは、ベートーヴェンの『運命』を中心としたものであった。このコンサートがきっかけとなり、アンセルメはモントルーのクア・ザールの指揮者となる。
指揮者となったアンセルメは、モントルーのカフェでストラヴィンスキーと運命的な出会いをして意気投合した。ストラヴィンスキーは当時まだスイスのローカルな指揮者に過ぎないアンセルメを、第一次世界大戦のためスイスに疎開していたディアギレフに紹介した。モントゥーの後任を探していたディアギレフにとってまさに渡りに舟で、彼は1915年のロシア・バレエ団(バレエ・リュス)によるジュネーヴ公演の指揮者としてアンセルメを指名した。ディアギレフは、アンセルメをアメリカ公演の指揮者としても指名し、ついに専属指揮者とした。
彼がバレエ・リュスで初演を担当した作品にはプロコフィエフの『道化師』、ファリャの『三角帽子』、サティの『パラード』などある。
他にストラヴィンスキーの数多くのスイス時代の作品を初演し、マルタンやオネゲルなどスイスの作曲家たちの作品を頻繁に取り上げた。なおこれらの活動の多くは、1918年にジュネーヴに創設したスイス・ロマンド管弦楽団によってなされた。 スイス・ロマンド管弦楽団は、設立当初は財政的に不安定であった。1930年代はじめには一時活動休止にまで追い込まれている。しかし、1938年にローザンヌのスイス・ロマンド放送のオーケストラを吸収合併し、当時成長をはじめた放送局のオーケストラとして財政的にも安定すると、一気に活動も活発となり、多くの名指揮者を客演として招聘するようになる。ブルーノ・ワルターやフルトヴェングラー、カール・シューリヒト(ヴヴェイに住んでいた)などが積極的に招かれている。フルトヴェングラーは、1944年1月17日ローザンヌ、1月19日ジュネーヴで客演した(後にスイスに亡命)。
戦後、イギリスのレコード会社デッカと専属契約を結んだアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は、かつてディアギレフの元で演奏したバレエ音楽、親交のあったラヴェルやルーセルなどの作品をはじめ、ストラヴィンスキーの作品など、網羅的に録音をする機会を得た。それらは、アンセルメのホーム・グランドとなったジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行われた。但しこのホールは録音のための部屋がなく、レストランの厨房をコントロール・ルームとして行うなど、難しい面もあったようだ。
放送用のスタジオは別にスイス・ロマンド放送にあった。ここでは映像をはじめとするアンセルメの多くの演奏が収録されているが、膨大なアーカイブが存在すると言われている。現在ではアンセルメの名前がついている(しかし、ヴィクトリア・ホールは1980年代に火災に遭い、オルガンなどを消失してしまった)。
デッカの録音によりアンセルメは世界的に名声を得た。サン=サーンスの『オルガン付』交響曲や、オネゲルの『ダヴィデ王』などは当時ベストセラーとなった。ストラヴィンスキーの3大バレエをはじめ、ファリャのバレエ音楽など彼らが世に紹介し、広めてきた音楽のその演奏が多くの人々に支持されたことによって、アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は第一級の「売れる」オーケストラとなっていった。
アンセルメはザッハーなどとともに、同時代の作曲家たちと親交を深め、その音楽の普及に努めたが、その中にはシェーンベルクなどの十二音音楽や、ヴァレーズなどのような前衛的な音楽、無調音楽は含まれていない。作曲家でもあったアンセルメは著書「人間の知覚における音楽の原理」(Les Fondaments de la Musique dans la Conscience Humaine )の中で、シェーンベルクの音楽語法が誤っていて不合理であると証明しようと試みた。
長年の友人ストラヴィンスキーとはそれまでも意見が対立しないわけではなかったが、十二音音楽批判がきっかけで絶交してしまう。ストラヴィンスキーが十二音技法を自作の中に取り入れたことが原因であったが、この絶交はアンセルメに深い後悔をもたらしたようである。晩年、スイス・ロマンド管弦楽団で、ストラヴィンスキーの作品を集中的に取り上げた際、「けんかをするには歳をとりすぎた」と招待状をストラヴィンスキーに送り、関係の修復を望んだアンセルメであったが、その演奏会にストラヴィンスキーはついに姿を見せなかったという。
アンセルメはスイス・ロマンド管弦楽団に半世紀にわたって君臨した。1967年に引退し、後任の指揮者として、スイスに帰化した作曲家でベルン交響楽団の音楽監督であったパウル・クレツキを指名した。そして1年あまり経った1969年2月20日ジュネーヴにて亡くなった。
アンセルメの死後、スイス・ロマンド管弦楽団は低迷したと言われる。それは後任として期待されたクレツキが、アンセルメが決して取り上げなかったマーラーを取り上げるなど、新機軸を打ち出そうとしたが、わずか3年でその任を離れたことなどによるのかも知れないが、スイス・ロマンド管弦楽団にアンセルメのイメージを求め過ぎたことによるかもしれない。