エデル・ジョフレ
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基本情報 | |
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本名 | エデル・ジョフレ |
通称 | ゴールデンバンタム |
階級 | バンタム級 |
国籍 | ブラジル |
誕生日 | 1936年3月26日(72歳) |
出身地 | ブラジルサンパウロ |
命日 | |
死地 | |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 78 |
勝ち | 72 |
KO勝ち | 50 |
敗け | 2 |
引き分け | |
無効試合 |
エデル・ジョフレ(Eder Jofre、1936年3月26日 - )は、ブラジルの元ボクサー。世界バンタム級チャンピオン、WBC世界フェザー級チャンピオン。二階級制覇者。「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名を奉られ、巧みな防御と軽量級離れした強打で、当時の軽量級としては極めて高いKOアベレージを記録、バンタム級史上最強に推す専門家も多い。
目次 |
[編集] 来歴
サンパウロ生まれ。父アリスティデス、およびその兄弟もボクサーという格闘技一家に生まれる。ボクシングジムを経営していた父から手ほどきを受け、アマチュアで活躍。メルボルン五輪の代表となり、準々決勝で敗退はしたものの、アマ通算戦績は150戦148勝2敗という驚異的レコードを残す。
1957年プロ入り。いきなり5連続KO勝利を飾るなど、連戦連勝を続けていく。1959年にはフィリピンの強豪レオ・エスピノサ、ダニー・キッドを判定に、翌1960年には“ロープ際の魔術師”ジョー・メデルを10回KOに下す。そして1960年11月18日、前王者ジョー・ベセラの引退で空位となっていたタイトルをメキシコの強豪エロイ・サンチェスと争い、6回KO勝ちで世界バンタム級チャンピオンとなる。この時点でのプロ通算戦績は38戦35勝(25KO)無敗3引分けという素晴らしいものであった。
その後は間にノンタイトル戦を挟みながら、いずれ劣らぬ実力派の挑戦者たちを相手に8度の王座防衛を、いずれもKO勝利で達成。その中にはジョー・メデルを6回KOで返り討ちにした試合、後に王者となったファイティング原田を苦しめることになる技巧派ベルナルド・カラバロを7回KOに葬った試合も含まれる。
1965年5月17日、9度目の防衛戦の相手に元フライ級世界王者ファイティング原田を迎える。ジョフレ有利の予想で始まったこの試合は、原田が無尽蔵のスタミナと驚異的な回転速度の連打でジョフレを苦しめ、4回にはKO寸前まで追い込む波乱の展開となった。しかし、ジョフレは5回に得意の強打で逆に原田をグロッギーに陥れるなど、ボクシング史に残る死闘となったこの試合は、僅差の判定で原田に軍配が上がった。
リターン・マッチでも原田に敗れ、一度は引退するが復帰、階級をフェザーに上げ、1973年、37歳にして名手ホセ・レグラに挑戦、一度はレグラのボディ・ブローでダウンを喫したものの、その後はレグラを圧倒、2-0の判定で見事WBC世界フェザー級王座を奪取、二階級制覇を達成した。
その後の防衛戦ではかつての名チャンピオン、7歳年下のビセンテ・サルディバルをボディ・ブローでKO、変わらぬ怪物ぶりを見せつけたが、その後チャンピオンのまま引退。なお、ジョフレに土を付けたボクサーはファイティング原田ただ一人である。
[編集] エピソード
- ただ強いだけでなく、人格者でもあった。原田にタイトルを奪われた試合は上述の通りクロス・ゲームであったが、試合後には笑顔で原田を担ぎ上げていた。
- なお、その並はずれたパワーからは想像できないが、菜食主義者だったという。
[編集] スタイル
身長は決して高くなかったが筋骨隆々の肉体で、ガードを高く上げるいわゆるピーカブー(覗き見)・スタイルをとった。序盤は巧みな防御で敵の攻撃を防ぎつつ、攻撃のパターンを読み切った時点で反撃に移り、そのフォロー・スルー(打ち抜き効果)の効いた破壊的な強打でマットに沈めた。
[編集] 通算戦績
75戦69勝(48KO)2敗4引分け