エディプスコンプレックス
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エディプスコンプレックス(独語:Oedipuskomplex,英語:Oedipus complex)は、ジークムント・フロイトの創始した精神分析における自我発達の中心概念である。男児の自我発達の場合、このコンプレックスが働くとする。
コンプレックスを日本語訳し、エディプス複合と呼ぶこともある。フロイト派では、男女共に用いられる用語である。
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[編集] 概論
エディプスコンプレックスとは母親を確保しようと強い感情を抱き、父親に対して強い対抗心を抱く心理状態の事をいう。これに関する理論はフロイトが提唱したものであり、その主張は以下の通りである。
自我発達の途中の段階において男児の自我は、もっとも身近な存在である母親を自己のものにしようとする欲望を抱く。同時に、その母親が受け入れている父親の存在に気づき、自己を父親に同一化させる。しかし、自我の発達が更に進展すると、男児の自我は、母親の所有において、父親は競争相手あるいは敵であるという認識を抱く。このようにして、父親と同一化した自我と、父親を敵視する自我の二つの位相が生まれ、自我は葛藤に直面する。
この際父親に去勢されるのではないかという不安から、近親相姦的欲望は抑制され、自我は葛藤を脱する。そしてその結果としてかつて父親に同一化していた自我の成分を無意識下に置き「自我の理想形」すなわち「超自我」とすることで、男児の心理は発達するとされる。
超自我は、父親の規範としての像を維持し、「なんじなすべし」または「なんじなすべからず」という定言命法(カント)を発する。これは道徳規範である自我理想、つまり超自我の成立とその発展を通じて、自我はより高い道徳規範を志向するようになる。
この理論の中に見られる母親に対する近親相姦的欲望をフロイトは、ギリシア悲劇の一つ『オイディプス』(エディプス王)になぞらえ、エディプスコンプレックスと呼んだ(『オイディプス』は、知らなかったとは言え、父王を殺し自分の母親と結婚したという物語である。詳細は、オイディプスの項を参照の事)。
これに対し、女児の自我発達の場合は、初めは母親に愛情を抱くが、自分にペニスがない事にショックを受けその後に同様の現象が起こるのだという。具体的には男根期にその喪失を感じることで次の潜伏期へと移る。その後乳房の膨らみなのど性徴により去勢感を払拭し女性としての誇り、自我に目覚める。しかしその女性器の元来的喪失感は埋め難く、男根による補償満足を求めることが女性の性欲となる。特に男児誕生はこの喪失感を全面的に補償すると考えられる。
[編集] コンプレックスの概念
なお、フロイト自身は「複合(Complex)」という言葉は使わなかった。「コンプレックス(複合)」はユングの用語であり、明確で理解し易いので、それ自身がトートロジーのようなフロイトの用語法を、フロイトの弟子達が継承せず、勝手に「エディプス複合」と称したのであって、フロイトは弟子達に、最後まで、「複合という言い方は間違っている」と批判したが、精神分析では、フロイトの意図に反して「エディプス複合」が正式な名称となってしまった。
[編集] 精神分析への貢献
この理論はヒステリー患者の精神疾患の原因が幼児期の性的虐待にあるということを疑うものであったため、後に非常に批判を浴びたがこの理論が果たした貢献は大きい。それはこの理論によりフロイトが幻想の世界に目を向けたという点である。
つまり空想と現実の差異が何らかの葛藤を生み出し、心にひずみが生じる事を説明した点でこの理論は画期的であった。
[編集] 批判
エディプスコンプレックスには批判も多く、有名なものとしては「それは外交的な人間に限ったもので内向的な人間においてはそれに限らない」というカール・グスタフ・ユングの批判がある。
実際、エディプスコンプレックス理論は父性的な社会である西欧ではよく利用される理論であったが、母性的な社会である日本ではさほど感覚的に合わなかった。そのため阿闍世コンプレックス理論が日本では提唱される状態となった。ただ、これに関しては家父長制が強すぎるためエディプスコンプレックスが見えなくなっているという反論や、阿闍世も実際は母親ではなく父王への反抗心だったという指摘もあるため、正しいのかは分からない。
また、エディプスコンプレックスは父親が強いという事が前提であり、ブロニスワフ・マリノフスキの「母権性社会」の話は、こういった事の反証として用いられる。
また、フロイトが強い近親相姦的欲望は多くの人にあるとしたのは、紀元前4世紀に書かれたソフォクレスの劇作「オイディプス王」の981行目に「多くの人がすでに夢の中で母と枕を交わしている」というイオカステのセリフがあるからのみであり、実際には近親相姦的欲望はそれほど強くないとも言われた。
さらに、エディプスの物語の過程が近親相姦を煽るように「一度引き離す」ように出来ていた事からも批判がある。つまりエドワード・ウェスターマークの身近な相手に性的欲望を持つ事は少ないというウェスターマーク効果によって近親相姦願望は近くにずっといた場合起こらないというが、これはそれにぴったり合う場合であって、通常はこんな事は起こらないと論証するためである。
なおミシェル・フーコー(1954)にはリビドーなどという概念は神話すれすれとして批判された。また、ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』(1972)には「禁止されている、だから望んでいる」というのはダブル・バインド的で非生産的であり、本質的に生産的なものは「器官なき身体」であると述べている。『アンチ・オイディプス』ではエディプスコンプレックスを含んだ精神分析全体を徹底的に批判している。