エステバニコ
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エステバニコ (Estevanico, およそ1503年~1539年)はもともと北アフリカ出身のベルベル人で、アメリカ合衆国南西部の初期の探検家。モロッコの大西洋岸に1513年から1541年まであったポルトガルの飛び領地 Azamor (Azemmour)の町に生まれ、エステバニコは青年時にポルトガルによって奴隷にされ、1520年、スペイン貴族のアンドレス・ドランテス・デ・カランツァに売られた。
エステバニコは、1527年、フロリダを征服するためのパンフィロ・デ・ナルバエスの遠征に参加し、ドランテスと共にイスパニョーラ島とキューバを旅行した。この遠征で、エステバニコは、アメリカ合衆国本土に足を踏み入れた最初のアフリカ人となった。彼とドランテスは不運な遠征の4名の生存者のうちの2名である。その他の乗員とともに一時しのぎのいかだに乗ってメキシコを目指していたが、集団はガルベストン島で難破し、ほとんどの乗員は溺れたり飢え死にし、あるいは先住民に殺された。1533年までには、エステバニコ、アンドレス・ドランテス・デ・カランツァ、アルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカ、アロンソ・デル・カスティーリョ・マルドナドの4名だけが生き残った。先住民のAnanarivoに4年間奴隷にされもした。しかし彼らは最終的にアメリカ内陸部を脱出し、現在のアリゾナ州南東部とソノラ砂漠を横切り、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のシナロアにたどり着いた。
1539年、エステバニコは黄金のシボラの7都市を探すマルコス・デ・ニサの探険にガイドとして同行した。しかし他のメンバーは病気になり、エステバニコは一人で探険を続け、現在のニューメキシコとアリゾナを切り開いた。彼は現在のニューメキシコ州のハウィクー(Hawikuh)のズニ(w:Zuni)の村で殺された。ある一面では、彼の薬を入れるひょうたんがフクロウの羽で装飾されていて、フクロウはズニにとって死を象徴する鳥であったため、部族は彼に疑念を持ったのだった。