イーライ・ホイットニー
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イーライ・ホイットニー(Eli Whitney,1765年12月8日 - 1825年1月8日)は、アメリカの発明家。綿繰り機、フライス盤を発明した。日本ではエリ・ホイットニーと記述される事もある。
[編集] 経歴
マサチューセッツ州生まれ。1792年にイェール大学を卒業し、サウスカロライナ州の教師に就くが、任地に赴く途中に滞在したジョージア州で木綿栽培を見た事がきっかけで、綿花の種とり作業の工夫に熱中しはじめる。そして、針を打ちつけた二つのローラーの間に綿花をはさみ、それにより種をとりのぞく、という着想を得て、1793年に綿繰り機を発明する。これにより、作業能率が従来の50倍も向上する事になった。しかし、発明した機械の模倣品が出回るようになり、経済的に得られた物は少なかった。
だが、発明家としての声望は高まり、1795年に、銃の国産化を目指すアメリカ軍から15000丁あまりのマスケット銃製造の依頼を受ける。そこで、ホイットニーは、部品ごとに専門化された単能工作機械を作るとともに、フランスのルブランが考案した限界ゲージを実用化し、公差が均一な製品を作れるように、加工の標準化を図った。これにより、互換性部品の大量生産を可能にした。当時の生産体系は、加工技術者の腕に頼る、一品一様の現合作業によるもので、部品の互換性は殆ど無い状態であり、これは画期的な事であった。後にホイットニーは軍関係者の前で、完成した複数の銃をばらし、その中から任意に取り出した部品により、再び銃をくみ上げるデモンストレーションを行い、驚かせた。
ただし、ホイットニーは互換性部品製造の創造者ではなく、宣伝者であるとする見る向きもある。 また、互換性のデモンストレーションは、軍と契約した銃の納期が大幅に遅れている事に対して好印象を与えようとした物で、実際に納品された物は、それより品質が劣る物であったともされる。
1818年には銃器生産の為に横フライス盤を発明した。