アンディ・デリス
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アンディ・デリス(Andreas Deris、アンドレアス・デリス 1964年8月18日 -)はドイツ・カールスルーエ出身のボーカリスト。現在はドイツのジャーマンメタルバンドハロウィンに所属。ソロでも活動している。
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[編集] バイオグラフィ
15歳の時にギターをプレイし始め、20歳で兵役を終えた後に本格的に活動を開始。1987年に地元カールスルーエでピンク・クリーム69を結成し活動していたが、1993年に脱退。1994年には友人であったマイケル・ヴァイカートに誘われ、マイケル・キスクの後任としてハロウィンに加入。現在までハロウィンのボーカリストとして活躍している。
[編集] PINK CREAM 69結成~HELLOWEEN加入
80年代後半にドイツのカールスルーエで結成されたピンク・クリーム69はドイツ、イギリス、ギリシャ、アメリカといったメンバーそれぞれが国籍が違うバンドである。 ピンク・クリーム69は89年にリリースした「PINK CREAM 69」がデビュー作だが本格的に日本で人気に火がついたのは次にリリースされた2nd「One Size Fits All」(91年)である。この頃からアンディは既に作詞作曲の殆どを手がけ、この時の音楽性がアンディ加入後のハロウィンのサウンドにも反映される様になった。 この当時、アンディとヴァイカートは友達同士であり、ハロウィンも「Pink Bubbles Go Ape」をリリースした時期である。この時既にハロウィンはバンドの状態が不安定な状況になっていたためにヴァイカートはアンディにハロウィンへの加入を持ちかけているがこの時点ではアンディはヴァイカートの誘いを断っている。 しかしこの後リリースされたピンク・クリーム69の3rd「Games People Play」(93年)はヘヴィ&モダンなサウンドで今までの作品とはとてもではないがかけ離れたものになってしまい、この頃からバンドの中で居心地が悪くなり孤立していたアンディは同時期にハロウィンが問題作「Chameleon」をリリースしフロントマンだったマイケル・キスクの解雇、インゴ・シュヴィヒテンバーグの一時的解雇(しかしインゴは95年3月に自ら命を絶ってしまいバンドに戻ってくる事はなかった)でバンドが壊滅状態になっていた時でもあり、再びヴァイカートから加入の話を持ちかけられアンディはピンク・クリーム69を脱退しハロウィンへと加入することとなる。
ハロウィンが現在所属する「Bottom Row Promotion」はピンク・クリーム69のドラマーコスタ・ツァフィリオが経営するマネージメントであり、コスタはハロウィンのマネージャーでもある。
2007年~08年にかけてのハロウィンとガンマレイのジョイントツアーが実現したのに対し、07年のBURRN!誌のインタビューでアンディに「将来的にハロウィンとピンク・クリーム69とのカップリングはないのか?」問いたところ「コスタやデニス(デニス・ワード)との間には何の問題はないがギターのコフィ(アルフレッド・コフラー)とは未だに確執が解消されてないから一緒にツアーをするのは難しいだろう」と語っている。
[編集] 音楽的特徴
マイケル・キスクの後任としてハロウィンに加入した彼は、今までのハロウィンにはなかった哀愁美のあるサウンドを持ち込んだ事によりハロウィン(主にマイケル・ヴァイカート)の音楽性と上手い具合に融合反応を起こし、Pink Bubbles Go Ape以降人気的にも音楽性的にも低迷していたバンドを事実上復活にまで押し上げる最大要因にもなった。また彼の最大の特徴は金属的かつブルータルな歌い方だけでなく非常に穏やかで悲しげな楽曲にも対応できる表現力豊かな歌唱力であり、メンバーのヴァイカート曰く『(プロデューサーの)チャーリーに「All Over The Nations(The Dark Ride収録)」のデモを聴かせたときにマイケル・キスクが歌っていると勘違いしてしまった。マイケルはひとつの方法でしか歌うことが出来なかった反面、アンディは3つも4つも違った歌い方が出来る』とアンディの歌を評価している。98年にリリースされた「Better Than Raw」や07年にリリースされた「Gambling With The Devil」はそんな彼がいたからこそ成しえた作品だといえる。
また彼は作曲面でも他の誰よりも貢献しており、加入から現在に至るまでアルバムに収録されている楽曲の約半分は彼の曲である。
現在では「アンディこそがハロウィン」という考えが定着しているものの、それでもマイケル・キスクを待望するファンからは「声に安定感がない」、「昔の曲(キーパー以前の曲)が歌えない」など批判される事も少なくない。アンディ自身も「キスクやカイ(カイ・ハンセン)の歌い方を出来る限りやってみようとはしたけど自分にはそれが出来ない。あくまで自分の表現で歌うしかない」と時折彼が未だに過去の亡霊に憑りつかれていることをぼやいてしまう事もあった。
[編集] 人物・エピソード
- テネリフェの自宅に「Mi Sueno」という名前のスタジオ(スペイン語で「私の夢」という意味)を所有しており、「The Dark Ride」以降のハロウィンのアルバムはプロデューサーのチャーリー・バウアファイントの指揮の下、全てここで行われている。また、ハロウィンの他にも、レイジやハンマーフォールといったバンドもこのスタジオを使用した。
- まだ彼がハロウィンに加入して間もない頃、「Master Of The Rings」リリース後に彼らの元にリッチー・ブラックモアから「アンディを自身のバンドに加入させたい」との電話があったことをメンバーのマイケル・ヴァイカートは「Master Of The Rings(エクスパンディッド盤)」のライナーノーツで語っている。そのリッチーのバンドとはレインボーのことである。
- 2年間ドイツ軍に所属していたためアンディは9mmまでの銃の所持を許可されている。また、彼は銃のコレクションも持っておりマグナム41、UZIマシンガンなどいずれも彼がライセンスを習得しているもの。(イン・ロック96年4月号インタビューより)
- あまり酒を飲まず、特に生粋のドイツ人ではあるがビールは全く飲まない。理由は幼少の頃の恐ろしい経験が原因らしく、醸造人だった父のビール工場のビア樽の梯子を上ろうとして誤って樽の中に転落してしまい、そのころ3歳でカナヅチだったアンディは掴めるところのないビア樽の中で溺れかけたという。その際にビールを沢山飲み込んでしまったため、それ以来、口にする事はおろか匂うのも駄目だということらしい。(イン・ロック96年4月号インタビューより)
- 大のカプチーノ好きでどこへいっても何を食べてもカプチーノが欠かせないという。
- 既婚者で、ロンという名前の08年で17歳になる1人息子がいる。
[編集] ディスコグラフィ
ソロで発表したものを記載する。