アドリアノープルの戦い
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アドリアノープルの戦い | |
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戦争: | |
年月日:378年8月9日 | |
場所:アドリアノープル北西 | |
結果:西ゴート族の勝利 | |
交戦勢力 | |
西ゴート族 東ゴート族 |
ローマ帝国 |
指揮官 | |
フリティゲルン アラテウス サフラクス |
ウァレンス |
戦力 | |
不明、推定30,000 | 不明、推定30,000 |
損害 | |
不明 | 戦死 推定20,000 |
アドリアノープルの戦い(羅:Proelium ad Hadrianopolim)は東ローマ帝国皇帝ウァレンス率いるローマ軍とゴート族との間に起きた戦闘である。 結果、ローマ軍は敗退。これ以後トラキア地方はゴート族に占領される事になった。
目次 |
[編集] 背景
4世紀中ごろ、東ゴート族は東から移住してきたフン族にもともと定住していた黒海沿岸を押し出され、ローマ帝国国境付近のドナウ川河畔まで接近していた。そこにはもともと3世紀頃から西ゴート族が定住していた。東ゴート族の移動によって住むところを奪われた西ゴート族は、武装解除した上でのドナウ川南岸移住の代わりに西ローマ帝国に軍務で適した男を傭兵として差し出すとともに帝国内で農耕する事を提案した。
[編集] 原因
西ゴート族の申し出にウァレンスは飛びついた。第一に弱体化が進むローマ軍の増強につながるからである。第二は過疎化が進むドナウ河畔一帯が再び農耕地帯になる可能性があったからである。ウァレンスは彼らの移住先にトラキアを用意した。
376年秋、フリティゲルン(en:Fritigern)らが率いる西ゴート族はドナウ川渡河を始めた。しかし、当初帝国側に知らせられていた規模(約10万人)を大きく上回る30万人が移住してきた。これは、他の部族も便乗して移住してきたからである。トラキア地方の行政官は、西ゴート族及び他の部族が農耕を行なおうとしても移住した季節が収穫の秋のため、翌年の収穫時までの1年間の食や生活必需品を支給しなくてはならなかった。しかし、行政官は生活面の補償をせず、また補償をしたとしても量も少なく低品質であったため、西ゴート族は武装解除せずにギリシャ北部で略奪を始めた。その勢いは当地にいたローマ守備兵を破るものであったため、ローマ皇帝自らの出馬が不可欠のものになっていた。
[編集] 概要
378年春、ウァレンスはアンティオキアからドナウ川南岸に近いコンスタンティノープルに向けて出立した。途中軍を集めながらの行軍であったため、5月末までかかっていた。コンスタンティノープル滞在中、西ローマ帝国の皇帝であった甥のグラティアヌスから援軍の必要についての書簡が届いたが、自分より戦功を遂げていた甥に対し負い目があったためこれを拒否した。
この間に西ゴート族側も、渡河をしていなかった部族に招集をかけた上でトラキアから一路コンスタンティノープルを目指し南下を始めた。迎え撃つ形のローマ軍も東進。戦端を開く場所は両軍の中間に当たるアドリアノープル(現在のトルコ領エディルネ)になったのである。
378年8月9日早朝、アドリアノープルを出たローマ軍は南下する西ゴート族を求め北西に歩を進めた。日が昇り始めた頃、先行していた右翼が円陣を組んで防御に徹していたゴート族の1部族を発見し攻撃を開始し、戦闘が始まった。ローマ軍は右翼、中央、左翼に騎兵団という典型的なローマ軍の布陣、つまり会戦方式の陣形をとっていたが、複数の部族の集合体であった西ゴート族側は各部族が独立して攻めてくる陣形で攻撃をしたのである。ゆえに、ローマが望む軍勢がぶつかり包囲戦に持っていく会戦にはならず、各軍がばらばらに攻める形式になってしまった。
結果、日が沈む前までにローマ軍は高官2人、35人の大隊長、全軍の3分の2を失うという惨敗を決し、ウァレンス自身も傷を負ったため臣下に支えられながら逃げ込んだ小屋の中で、皇帝が中にいると知らず火をかけたゴート族によって焼き殺された。
[編集] 影響
これにより、西ゴート族は武力を保持したままでローマ帝国内に居座る事になった。 帝国中央部に侵入を許したため東西ローマの分裂は決定的となり、いよいよ持ってローマ帝国の蛮族化が進むことになった。
この戦いでのローマ軍の敗北は文化人にも大きな衝撃を与えた。元ローマ軍人で歴史家のマルケリヌス・アンミアヌスもその一人である。彼はタキトゥス著作以降(ネルヴァ帝以降)のローマ史を記述した『歴史』をウァレンス帝の戦死で終えることになる。