アイモ・カヤンデル
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アイモ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander、1879年 - 1943年)は、フィンランドの政治家。首相(1922年6月2日 - 11月、1924年1月18日 - 5月31日、1937年3月12日 - 1939年12月1日)。
無党派だったが、社会民主主義を志向し、フィンランドの中道派に大きな影響力を有した。1922年6月2日~11月、1924年1月18日~5月31日、首相。1928年~1929年、国防相。その後、進歩国民党に入党し、同党の指導的地位を占めた。
1937年3月12日、社会民主党と連立で組閣を委任され、穏健派のR.ホルスティを外務相に据えた。無条件の平和を政策とし、ソ・フィン関係の正常化を求めた。1938年初め、ドイツの圧力によりホルスティを更迭し、ユホ・エルッコを外務相とした。1938年中盤、ソ連はカヤンデル政権に圧力を加え、「侵略への対抗」のためにフィンランド領内へのソ連軍の進駐を許可する条約を締結せざるを得なかった。ソ連に対抗するために、当時力を蓄えつつあったドイツの影響力を当てにすることとなった。
1939年3月、ヘルシンキでソ・フィン交渉が始まり、ソ連側はフィンランド湾内のスールサーリ、ラヴァンサーリ、大・小チュテルサーリ島の租借を提案した。カヤンデル政権はこれを拒否し、ソ連側は代わりにカレリアの一部の島を譲渡ることを提案した。1939年4月、フィンランド側の発議により交渉は決裂した。1939年5月、カヤンデルは、フィンランドは国際連盟が侵略国に科す制裁の履行から解放されると表明し、ドイツの侵略があった場合、大国の保証を拒否するとイギリスに通告した。7月20日、ドイツの侵略があった場合、ソ連との協力を拒否し、いずれの国の軍事行動も侵略とみなすとソ連に通告した。
第二次世界大戦勃発後、1939年9月3日、カヤンデル政権は、フィンランドの中立を表明した。同年10月、ソ・フィン交渉が行われたが、合意には達しなかった。10月6日、カレリア地峡への部隊集結を決定し、同日、政府に非常大権を賦与する共和国防衛法を採択した。11月30日、ソ連軍が国境を横断し、冬戦争が始まり、12月1日、カヤンデル政府は総辞職し、リスト・リュティが首相となった。