たけしプロレス軍団
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たけしプロレス軍団(-ぐんだん)は、ラジオ番組の企画から生まれたプロレス団体、あるいはその企画。
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[編集] 略歴・概要
ラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」の企画から生まれたプロレス団体で、ビートたけしが首領にあたり、たけし軍団も参加している。略称はTPG。
1987年初秋、ビートたけしが突然、当時懇意になりつつあった東京スポーツ紙上で、「プロレス団体設立」をぶち上げたのが発端。設立の動機を「オイラがプロレスファンという事もあるけど、最近のプロレスに感じられなくなった力道山時代の熱気を、ぜひ取り戻したいと思った」と語り、手駒の選手をスカウトしたり育てたうえで、「手始めにアントニオ猪木に挑戦したい。何といっても日本でナンバーワンのプロレスラーだから」と、その目標を明らかにした。
東京スポーツは以後「ビートたけしプロレス大挑戦」と題した密着ルポを始めるなどして、「ビートたけしのオールナイト―」と共にTPGの煽り役を担う。但し他のプロレスマスコミのなかには「(たけしが本気かどうかが分からないので)人騒がせな話」と訝しがる声もあった。
その後、「ビートたけしのオールナイト―」内で練習生を募集。都内に用意された秘密道場で、アポロ菅原がコーチを担当した。練習生のなかには、後の邪道、外道、スペル・デルフィンがいた。当初の構想としては、後年の浜口ジムや闘龍門のようなスタイルでの運営が予定されていたようだが、後述の両国暴動により企画・団体が自然消滅し、邪道らは紆余曲折の末にプロレスデビューへとこぎつける事になった。
その一方、猪木との因縁が深まったマサ斎藤が、たけしに接近。「打倒猪木」で意気投合し、斎藤はTPGの参謀役を任せられる。また、渉外的な役割をガダルカナル・タカとダンカンが務め、新日本プロレスの事務所に出向いて山本小鉄に一喝されたり、会場に現れて猪木に直接挑戦状を渡すなどした。
[編集] 試合当日
1987年12月27日の新日本プロレス両国国技館大会において、藤波辰巳、木村健吾 vs マサ斎藤、ビッグバン・ベイダー(TPGが連れてきた刺客)のタッグマッチが組まれた。しかし、選手と共にビートたけし、ガダルカナル・タカとダンカンが入場しリングに上がり、ガダルカナル・タカが「我々の挑戦状を自ら受け取ったのだから、ベイダーと戦うべき人はアントニオ猪木さんのはずです」と挑発、更にダンカンが観客に向けて「あんたら猪木の逃げる姿を見に来たのか?あなたたちは猪木を卑怯者にしたいのか?やらせろーっ!やらせてくださーい!」などとアピールし、続いてマサ斎藤も猪木を挑発した(たけし本人は沈黙)。これに対して猪木はリングに上がり、観客に対し「どうですかお客さん!」(挑戦者と対戦してもいいか?)と呼びかけ、当初より予定されていた長州力とのシングルマッチを中止しベイダーとの対戦を宣言すると場内は騒然となった。
猪木がベイダーと戦うことになった為、その振替試合として長州、斎藤 vs 藤波、木村のタッグマッチが急遽行われたが、突然の試合変更に納得がいかない観客席からは「やめろ、やめろ!」というコールが起きリングに次々と物が投げ込まれた。
この試合の後、観客の猛烈な抗議や長州の「何で俺が(試合を)代わらなきゃいけないんだ?」といったアピールなどにより、猪木vs長州の特別試合が行われ事態はやや収束に向かった。だが、続くメインイベントで猪木はベイダーの一方的な攻撃に反撃の機会すらなく簡単に敗れてしまい、これを見た観客が再び騒ぎ始め最終的には暴動騒ぎにまで発展した。
[編集] 試合後
この暴動騒ぎにより国技館の升席のパイプが破損したり、座布団が破られる、椅子席が壊されるなどプロレス界史上最大と言ってよいほどの騒ぎになったために日本相撲協会が新日本プロレスに対して両国国技館の貸し出しを無期限で禁止する事態にまで発展した。その後1年2ヵ月に渡って両国国技館の使用が出来なかった。国技館は都内でのビックイベントの常打ち会場でもあり、集客性が高い両国国技館での興行が禁止されたことは新日本にとっては大打撃であった(1989年2月22日の両国国技館大会で解禁。このときのメインイベントに「みそぎ」として長州力vsA・猪木戦が組まれた)。
結局その後、たけしプロレス軍団は自然消滅した。一時たけし周辺では猪木の発した言葉「どうですかお客さん!」はちょっとした流行語になり、スーパージョッキーのワンコーナーのタイトルにもなった。また、たけし軍団の一員で、もともと猪木の物真似を得意としていた井手らっきょは、前述の暴動直後、早速このフレーズを持ちネタに加えていた。
一方、ビッグバン・ベイダーはその後も新日本プロレスに継続して参戦、常連外国人となっていく。
[編集] マスコミの反応
前述のとおりTPGの企画を全面的に後押しした東京スポーツでさえ、この87年12月27日の評価は二分された。猪木対ベイダー戦の後、一旦引っ込んだ猪木がリング上に現れ「みんな今日はありがとう」と挨拶したのに対し、観客が怒りを増幅させ、さらに暴動が激化―といった場面があったが、それについて「観客の怒りが収まらないのに、何を思ったか猪木が現れ『ありがとう』と挨拶」と解釈するものと「猪木がわざわざ出てきて『ありがとう』と挨拶したにも関わらず、観客の怒りは増幅」と解釈した、異なったニュアンスの記事が、東京スポーツの同一紙面に掲載されていた。東京スポーツでさえも混乱した様子が伺える。
因みに他のプロレスマスコミの扱いは、東スポやたけしに遠慮してなのか、事実のみを伝えて、論評はあっても及び腰のものが多かった(例えば週刊プロレスは、暴動までに至った原因について「観客は与えられたカードをじっくり見たいと思っていたのだろう」などと書いていた)。
わずかにフリーライターの板橋雅弘が、当時「週刊プレイボーイ」で連載していたコラム「元祖!プロレスの鬼」のなかで「こうなる(ファンが怒り出す、暴動になる)事は分かり切っていたのになあ。特にTPGに関しては煽り立てた東スポも悪い。猛省せよ。東スポはこれを機会に、プロレス報道のあり方をよく考えてもらいたい」と、正面切って東スポを批判していた。
[編集] 時代背景
当時のプロレスファンには「プロレスを理解できない部外者」に対する明確な拒絶反応が存在しており、芸能人(ビートたけし)がらみのプロレス軍団というギミックは到底受け入れられないものだった。しかも猪木と長州のシングル対決はシリーズ全体の目玉カードだったため、その試合に期待して集まった観客の怒りが頂点に達してしまった。たけしプロレス軍団がリング上に登場した直後から「帰れ!」「プロレスを甘く見るな!」などの罵声が飛び激しいブーイングも起きた。
1987年の格闘技界は、修斗が既に活動を開始し、翌年に第二次UWFが再出発を図る(その一つのきっかけとなる「前田顔面蹴撃事件」が、この87年11月に起きた)など、後の総合格闘技ブームに繋がる動きが出てきた頃であり、真剣勝負を押し出した格闘技色の強いプロレスが好まれた。特に新日本プロレスはストロングスタイルを標榜していたため、その傾向が強い団体であった。そもそもそんな状況で、「ビートたけし」「たけし軍団」というギミックを前面に押し出した「たけしプロレス軍団」はファンに受け入れられるはずがなく、そのうえ猪木が不甲斐ない試合をした事もあり、来場していたファンから強い反発を受ける結果になってしまった。たけしと新日本プロレス、双方がダメージを受けた。
つまるところ、たけし(と取り巻きのブレーン)にしろ、新日本プロレス(猪木及びテレビ局など)にしろ、ファンのニーズや空気をまるで読み切れていなかったのが、悲惨な結果を招いたと言える。
[編集] うら話
試合前の打ち合わせで新日本のフロントとの話し合いの中で「え~、海賊男がいましてこれはうちのキャラクターで・・」と念入りに打ち合わせをしていた。また、試合当日には長州力がビートたけしの元に「よろしくお願いします」と頭を下げたりサインを求められていたが、試合が始まるとリング上で「なんだお前は!」と怒鳴られ「態度が全然違うじゃないか~」とラジオで語っていた。
[編集] 消滅後
養成学校としての企画は「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「女子プロレス予備校」で復活、こちらは元気美佐恵、シュガー佐藤、市来貴代子、Akyらを世に送り出し評価された。