AUTO-MOD
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
AUTO-MOD | |
---|---|
基本情報 | |
出身地 | 日本 |
ジャンル | ロック |
活動期間 | 1981年~1985年 1997年~ |
レーベル | Telegraph WECHSELBALG EXELLEX |
メンバー | |
GENET Vo. YUKINO G. MASA B. TELL Dr. |
|
[編集] 経歴
「TOKYO DARK CASTLE」のオーガナイザーであるGENET(ジュネ)がフロントマンとして活動を続けるバンド。フロントのGENETは1978年日本のパンクムーブメントのきっかけを創る事となった東京ロッカーズにWORST NOISE、MARIA023などのバンドに参加。剃刀でギターを弾き血まみれになるなどの破滅的パフォーマンスとその強烈な個性でロックシーンに躍り出た。その後GENETは1979年秋から1980年代中期までロンドンに帯在し、バウハウスに多大な影響を受け帰国。帰国後直ぐにラディカルな主張と表現行為としてのロックを追求するバンドAUTO-MODを結成。
そしてGENETはAUTO-MODの解散を最終目的とした13回限定のシリーズ・ギグ「時の葬列」を主催。1984年にはメジャー・デビュー、そして当時イギリスで起こりつつあったVirgin Prunes、Alien sex friend、Sex Gang Childrenなどのダークウェーブシーンと連動する。そしてこのイベントよりSADIE SADS、G-SCHMITT、MADAME EDWARDA他数々のポジティブパンクバンドを生み出す事となった。このポジティブパンクシーンはブームを巻き起こし、白塗りファッションの少年少女が現れた。又この時期寺山修司に傾倒していたGENETは、天井桟敷の福士恵二と共に自らの劇団バジワークシアターを作り演劇活動も活発に行なった。
AUTO-MODはそのポップな音楽性と実験音楽と言う相反する二面性を同時に一つのアルバム、ステージに於いて演劇的手法と共に展開するという音楽観を持ち、その高度な音楽性は、ミュージシャン集団としても特質したものであった。初期においては、メンバーの実力不足と音楽に対する姿勢にGENETが苛立ち、自らが脱退を発表したこともあった。また、満足のいくメンバーの不足からGENET自身がステージにおいて楽器を演奏しなければならないこともあり、フロントパフォーマーに専念出来ないこともあった。一度目の解散の際にリリースされたビデオ「history」でGENETが語ったところによると、BOØWYの布袋寅泰がサポートメンバーとして加入したことで音楽性が格段にあがったとのこと。当時はプロミュージシャンとして駆け出しだった布袋も実験的なアプローチをGENETと共にトライしている。サポートメンバーには、布袋の他、BOØWYの高橋まことも参加。PERSONZの渡邉貢、後にレベッカ・筋肉少女帯のサポートを務める事になる友森昭一、矢沢永吉のセッションに参加する河野利昭、現在プロデューサー、DJとして活躍する朝本浩文などをメンバーとして輩出している(レコーディングにはBOWWOWの厚見玲衣が参加したこともある)。この面々からして、音楽性が単なるダークシーンの産物ではなかったことを証明している。しかし、そのAUTO-MODも1985年11月3日に後楽園ホールにて「時の葬列最終夜」を迎え解散。
その後役者など、様々な活動を続けたGENETは1997年、二十世紀最後を迎えAUTO-MODを復活。復活したAUTO-MODの音楽は以前とは全く違った、インダストリアルな暗黒ヘビーロックの道を辿り始めた。そして、GENETはクラブにおけるアンダーグラウンドイベントの可能性を目指し2000年に「TOKYO GOTH & DARKWAVE」を立ち上げる。2003年には「TOKYO GOTH & DARKWAVE」は「TOKYO DARK CASTLE」と名を変え、GENETのプロデュースの下、今に至っている。