長久保赤水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長久保赤水(ながくぼ せきすい、本名:玄珠、俗名:源五兵衛、享保2年(1717年) - 享和元年7月23日(1801年8月31日))は現在の茨城県高萩市出身の、江戸時代の地理学者、漢学者である。
農民出身であるが、祖先は現在の静岡県駿東郡長泉町にあった長久保城主であるとされる。 日本で初めて経緯度線が入った地図である『改正日本輿地路程全図』(かいせいにほんよちろていぜんず、1779年)を著し、日本地図の先駆者と呼ばれる。 また、水戸藩主徳川治保の侍講となり、徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』の地理志の執筆や、藩政改革のための建白書の上書などおこなった。 師である鈴木玄淳らとともに、中国の竹林の七賢になぞらえ、松岡七友と称される。
[編集] 略歴
- 1717年、常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)の農家に生まれる。
- 1732年、鈴木玄淳の私塾に入り漢詩などを学ぶ。
- 1735年、水戸藩の儒学者、名越南渓に師事。
- 1753年、松岡七友として水戸藩から賜金を給せられる。
- 1760年、東北地方を旅し旅行記『東奥紀行』を著す。
- 1767年、長崎行きを命じられる。『長崎行役日記』を著す。
- 1768年、水戸藩の郷士格(武士待遇)に列せられる。
- 1777年、水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川の水戸藩邸に住む。
- 1778年、建白書『農民疾苦』を上書する。
- 1779年、『改正日本輿地路程全図』を刊行。
- 1786年、藩命により大日本史の地理志の編集に従事する。
- 1801年、赤浜村で死去。
[編集] 改正日本輿地路程全図
日本で初めて経緯度線が入った地図で、通称『赤水図』と呼ばれる。緯線経線には緯度の記載のみで経度は書かれていない。 安永4年(1775年)に完成し、安永8年(1779年)に大阪で初版が刊行された。 10里を1寸としているので、縮尺は約130万分の1となる。 6色刷で、蝦夷(現在の北海道)を除く日本全土が示されている。 江戸時代中期頃の地図考証家・森幸安によって描かれた日本分野図(日本地図)にも同様の経緯度線が入っており、一説によると赤水図はこの幸安図を基に作成されたのではないかと言われている。 赤水図は、伊能忠敬の地図より42年前に出版され、明治初期までの約100年間に8版を数えた。伊能の地図はきわめて正確であったが、江戸幕府により厳重に管理されたこともあって、この赤水図が明治時代まで一般に広く使われた。 沿岸部のほとんど全てを実測した伊能の地図には劣るが、20年以上に渡る研究の末、完成した地図は、当時としては驚異的な正確さといわれている。
赤水図はドイツ国立民族博物館のシーボルト・コレクションや、イギリス議会図書館など海外の博物館等にも多く収蔵されており、当時の欧米において日本を知る資料として活用されていたことが伺われる。
[編集] 外部リンク
- 日本輿地路程全図:改正 (神戸大学附属図書館 住田文庫所収)
- 改正日本輿地路程全図 文化8 (1811)年版