鉄道旅行
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鉄道旅行(てつどうりょこう)は、鉄道を利用する旅行のこと。類義語に汽車旅(きしゃたび)がある(電車・気動車を利用しても汽車旅と呼ぶのが一般的である)。
現代においては、旅行において鉄道を選択することは、単なる移動手段の選択の一つでしかない。しかしながら、産業革命期において、格安の輸送サービスを実現した鉄道は、一般大衆に普段生活する場所とは別の場所を周遊するという娯楽をはじめて可能にするに至った輸送手段であった。初期の大衆旅行において、旅行そのものの質の変遷は、鉄道サービスの変遷と常に隣り合わせであり、その意味で鉄道による旅行である鉄道旅行に着目することは重要であるし、こうした歴史があることが、鉄道による移動そのものを楽しむ旅行が一般に認知される要因となっている。
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[編集] 大衆旅行としての鉄道旅行の歴史
鉄道登場以前、旅は多くの危険を伴う行為であった。 自分の住む地域と異なる地域を旅行する際に、現地の為政者が身の安全を保障してくれる可能性は現在に比べて低く、また、現在に比べて人の移動がずっと少なかったために、抗体を持たない病原菌に感染する可能性が高かったのである。自国のごく限られた範囲を旅行する際でも、悪路を徒歩や馬車で長時間かけて移動する必要があり、旅行先での滞在設備の欠如、長期間を要する旅行費用、地域情報の欠如などはごく限られた層を例外として、用務目的以外での旅行をためらわせるものであった。
鉄道の登場は、こうした事情を大きく変えた。鉄道は、人々の移動時間を大幅に短縮することに成功し、情報の伝達をスムーズにした。鉄道がもたらした産業の成長により、様々な業務で長距離を旅行する人々が増加した。こうしたニーズに応えるかたちで、旅行者の滞在に必要な宿泊設備や食堂などの設備も充実していった。 鉄道の成長と同時期に進展した産業革命は、人々に富と余暇を与えた。一定の余暇を持つ中産階級の成長を促すとともに、工業労働者などにおいてもより拘束された工業労働を営むことが求められるとともに、非労働時間には過度の飲酒などを避け、より健全な娯楽を楽しむことが求められた。
これに応えるかたちで事業を展開したのがトーマス・クックである。クックは、こうした大衆の旅行に対する潜在需要を察知し、さらに鉄道輸送に季節波動があることに目をつけ、1841年、鉄道を用いた団体旅行の企画を世界に先駆けて行った。この企画は大成功で、クックはその後もパリの万国博覧会などの旅行の企画を行い、トーマス・クック社は現在でも有名な旅行社に成長するに至った。
[編集] 旅行の目的としての鉄道
初期の大衆旅行における鉄道のサービスは劣悪であったが、全旅行時間に占める鉄道による移動時間の割合は比較的高いものであった。旅行だけではなく、新たな職を求めての長距離移動など、かつての人々の人生の節目における鉄道の役割は大きいものであった。
現在、鉄道を利用することを目的とした鉄道旅行が存在する。一部の鉄道路線には風光明媚な場所を通るものがあり、景色を眺めることがその目的の一つであるが、長距離を鉄道で移動するという行動をとることで、かつての人々の行動を追体験し、そこから楽しみや充足を得ようとするという動機も含まれると考えられうる。
鉄道を利用した旅行には別の意味もある。鉄道にはある種の統一性、完結性がある。そこに強い関心を持つ個人は、鉄道路線を忠実になぞり、自分をそこに投影することで、楽しみや充足を得ることが可能である。この場合、鉄道路線は乗車の対象として抽象化されうる。鉄道旅行のこうした性格をどれだけ好むかによって実際の行動には違いがあるとはいうものの、景色の良し悪しや、その路線のもつ歴史的、文化的意味に関係なく、単純に乗車することや、地図上の未乗車の路線を消していくことに意味が生じうるのである。鉄道ファンの旅行には、こういった性格の旅行が多いといわれることがあるが、現実には各個人の主観があり、特にルールが決まっている訳でもないことから、相当に個人差があるといってよいであろう。なお、乗る事自体を目的とした鉄道旅行を行う鉄道ファンのことを「乗り鉄」ないしは「旅鉄(たびてつ)」ともよぶ。
[編集] 日本における鉄道旅行
日本における旅行手段はかつて(1960年代まで)、鉄道が最も一般的であった。しかし、これは鉄道そのものの魅力によるものではなく、代替移動手段がないことによる選択であった。
[編集] 勃興
1970年代以降、自家用車と航空機が一般化していく中で、鉄道は絶対唯一の旅行手段ではなくなっていく。その中で、あえて鉄道を移動手段として利用する旅行自体に魅力を感じる層が出現しはじめる。その先駆けと呼べるのが作家内田百間の『阿房列車』シリーズである。
1977年頃に始まるブルートレインブームによって、ブルートレインと夜行列車が少年層のあこがれとなり、それまでのSLブームが「蒸気機関車を撮影すること」に比重があったのに対して、「列車に乗ること」が趣味になるという認識を一般に広める契機となった。
また、同年には種村直樹が日本交通公社から『鉄道旅行術』を出版した。この書籍には乗車券の購入方法から駅弁の楽しみ方、宿の取り方など、当時はあまり公開されていなかった鉄道旅行のノウハウが詳細に記されており、「鉄道旅行のバイブル」とまでいわれた。この書籍によって、各大学の鉄道研究会や鉄道友の会では当たり前であったノウハウが一般化し、一般の人が鉄道旅行へ出る基礎情報がそろうことになる。
そして、1978年に中央公論社で活躍した編集者・常務であった宮脇俊三が処女作である『時刻表2万キロ』を河出書房から刊行した。宮脇の飄々とした文章と淡々と鉄道に乗り、沿線を旅していく様子が鉄道に興味のない一般大衆の心をつかみ、この書籍は今までの鉄道関係書籍としては異例のベストセラーとなった。この書籍の影響は大きく、日本国有鉄道が1980年代にいい旅チャレンジ20,000kmキャンペーンを張るきっかけとなるなど、鉄道を乗ること自体が趣味として一般に認知された。なお、宮脇は1979年に『最長片道切符の旅』を新潮社から出している。宮脇が「最長片道切符」という分野を開拓した訳ではないが、世間一般に「最長片道切符」をひろく認知させた。
一方、種村は、車中泊のみで列車をつなぐ「乗り継ぎ旅」と計画性を持たず成り行きで行程を決める「気まぐれ列車」という2つの鉄道旅行の形態を提案した。また、「汽車旅」という用語を鉄道旅行の代名詞として最初に使用し始めたのも種村である。宮脇が郷愁を誘う紀行文とともに鉄道旅行を広めたのに対して、種村は鉄道旅行の手法を提案することで鉄道旅行の魅力を広める役割を果たした。
[編集] 現状
新幹線網や高速道路網の拡充、航空会社の競争促進策などによる社会のスピード化に伴って、鉄道による旅行は減少傾向をたどっている。前述のブルートレインに代表される夜行列車は、利用者減少のためことごとく削減されてしまった。鉄道が本来威力を発揮する300キロ程度までの距離についても、高速バスとの競合が激しくなっている。さらにJRへの移行以後は、長距離列車の削減の流れが止まらなくなっており、鉄道のみを利用して長距離旅行を行うことは困難になりつつある。
また、鉄道会社各社が利益重視、効率重視の度合いを強める一方で、先に挙げたような鉄道の魅力が失われつつあること、旧態依然とした殿様商売(例えば航空会社にはマイレージサービスや、利用の多い「上客」を対象にした上級会員サービスの提供、「早割」や「超割」などに代表されるバーゲン型割引運賃の提供などがあるが、JRには基本的にない)、また周遊券や各種割引乗車券の改廃等も、鉄道旅行の衰退に拍車をかけている。
関東地方~北海道を結ぶ「北斗星」「カシオペア」および近畿地方・北陸地方~北海道を結ぶ「トワイライトエクスプレス」は、単なる旅客輸送では航空機(「北斗星」「カシオペア」であれば羽田・成田・仙台~新千歳など。「トワイライトエクスプレス」であれば伊丹・関空・小松~新千歳など)に対抗できないため、鉄道旅行を旅客に楽しまれるよう色々な工夫がされており人気がある。
また、九州旅客鉄道(JR九州)は自社管轄地域の特徴のある環境を生かし、観光特急の発展に力を入れている。九州新幹線の開通で南九州へのアクセスが容易になったことから、特に南九州エリアでの観光列車の設定が多い。こちらも上記の寝台特急のように、旅客に旅を楽しんでもらえるさまざまな工夫がされている。
2000年代中盤から団塊の世代が引退する時期に入り、団塊の世代に向けたさまざまな鉄道旅行のスタイル(ローカル線の終点へ行く、行き先だけ決めてふらりと旅に出てみる、鉄道とバスを組み合わせるなど)が提案されているが、いずれも宮脇や種村がその著作を通じて提案し続けてきたことに一致する。そうしたことから宮脇と種村を再評価しようとする動きもある。
[編集] 鉄道旅行と列車
[編集] 団体専用列車
旅行会社などが企画する団体旅行において、その団体を輸送するための専用列車を用意することがある。これが団体専用列車である。通常は、急行や特急向け車両の予備車両を利用する。また、後述するジョイフルトレインを用いることもある。
[編集] ジョイフルトレイン
単に鉄道で移動するだけではなく、移動中にも企画や談笑で楽しんでもらうために、通常の列車を改造し、イベントができたり、展望をよくした列車が作成された。これを総称してジョイフルトレインという。詳細はジョイフルトレインの項目を参照のこと。