赤報隊
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赤報隊(せきほうたい)は、江戸時代後期の幕末に結成された草莽隊で、王政復古により官軍となった薩摩藩、長州藩を中心とする新政府の東海道鎮撫総督指揮下の一部隊である。
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[編集] 経過
薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て、1868年(慶応4)1月8日に近江国松尾山の金剛輪寺において結成される。隊長は相楽総三で、公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主として擁立する。隊の名前は「赤心を持って国恩に報いる」から付けられた。一番隊、二番隊、三番隊で構成されていた。
相楽総三は、薩摩藩邸の浪士隊の総裁として、江戸市内において旧幕府軍に対する挑発的行為としてテロ工作などを行い、これが戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽・伏見の戦いのきっかけにもなった。
赤報隊は新政府の許可を得て、「年貢半減」を宣伝しながら信州へ進み、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得た。しかし、新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。そして、新政府は財政的に年貢半減の実現は困難であるとして密かに取消し、年貢半減は相楽らが勝手に触れ回ったことであるとして、公家の高松実村を盟主としていた高松軍とともに偽官軍の烙印を押された。
3月3日、新政府軍によって、下諏訪郊外で相楽らは処刑された。しかし、赤報隊に加わっていた公家は処刑から外された。赤報隊は、新政府によって使い捨てにされたといえる。なお、二番隊は新政府に従い、京都へ戻り、のちの徴兵七番隊に編入され、三番隊は各地域での略奪行為が多く、桑名近辺で多くの隊士が処刑された。
相楽の孫である木村亀太郎は、赤報隊の関係者と共に名誉回復に奔走した。その結果、1928年(昭和三年)、相楽総三に正五位、渋谷総司に従五位の位階が追贈され、全員ではないが、名誉回復は果たされた。
第二次世界大戦後、下諏訪では赤報隊を顕彰する相楽会が結成された。今なお、処刑場跡に位置する「相良塚(別名=魁塚)」では、毎年4月3日(命日である旧暦3月3日の1ヶ月後に合わせたものと思われる)に遺族を招いて相楽祭を行い、供養している。
また、2008年4月には、岐阜県不破郡垂井町岩出の菁莪記念館の駐車場に、住民の手による赤報隊の顕彰碑が建立されている。
赤報隊は旧幕府軍を挑発するために江戸の市街を焼き払ったり、伊勢長島藩主・増山正修から軍資金という名目で3000両を強奪するなど、必ずしも正義の軍であったとは言えない一面もあることを忘れてはいけないが、同じ「偽官軍」で祀られないまま名誉も回復されずに好事家の肴となっている高松軍の小沢一仙(逸仙とも、1830年 - 1868年)と比べると救いもある。
[編集] 各隊の構成
- 一番隊(隊長 相楽総三):江戸以来の相楽の同志が中心メンバー。
- 二番隊(隊長 元新選組九番隊隊長鈴木三樹三郎):元新選組(御陵衛士)隊士が中心メンバー。
- 三番隊(隊長 油川錬三郎):水口藩士や江州出身者が中心メンバー。
[編集] その他
戦後の極右テロ組織の幾つかに幕末の赤報隊にあやかり、赤報隊を名乗るグループが存在した。1987年1月24日には、赤報隊を名乗る団体が朝日新聞社阪神支局などを襲撃した(赤報隊事件)。
[編集] 関連作品
- 岡本喜八 監督『赤毛』1969年
- 野口達二『いい話ほどあぶない 消えた赤報隊』さ・え・ら書房 1978年 ISBN 9784378020266
- 北方謙三『草莽枯れ行く』集英社文庫 2002年 ISBN 9784087474428
[編集] 関連項目
- 鈴木三樹三郎
- 油川錬三郎
- 黒駒勝蔵
- るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-