花岡鉱山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
花岡鉱山(はなおかこうざん)は、かつて秋田県北秋田郡花岡町(後の花矢町、現・大館市)に存在した鉱山。鉱山を支えた鉱石は、黒鉱と呼ばれる閃亜鉛鉱や方鉛鉱であり、良質な鉱石からは、亜鉛や鉛などのほか金、銀といった貴金属も採取していた。日本の金属鉱山としては珍しく、大規模な露天掘りが行なわれていた。戦後は松峰鉱山など支山の開発に注力し、採掘・鉱石運搬(トラックレス方式)など様々な面で新技術を導入するなど積極的な事業を展開した。1885年に発見されて以来、国内屈指の鉱山として操業を続けてきたが、1994年に採算性の問題から採掘を終了。現在では、同和鉱業の精錬、リサイクル工場が稼働している状態である。
目次 |
[編集] 花岡事件
[編集] 概要
鉱山労働力が不足した第二次世界大戦末期には、タコ部屋労働や中国人労働者による重労働が行われていた。花岡川の改修工事などを請負った鹿島組により1944年7月以降連行された中国人は986人に上り、1945年6月までにうち137人が亡くなった。彼らは過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日夜に800人が蜂起を起こし、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図った。7月1日憲兵、警察、警防団の出動により獅子ヶ森に籠っていた多数の労働者も拷問などを受け弾圧(殺害)され、それまでの死者と合わせて419人が亡くなった。外務省管理局は、『華人労務者就労事情調査報告』で、死因について彼等の虚弱体質などによるものとして、「大半ハ既ニ供出時ニ存シタリト断定スルモ大過ナク」、過酷な労働条件が死因ではないと主張している。しかし、日本の敗戦後、彼等を手当てした高橋実医師によれば、彼等が帰国するまでの約2ヶ月間の間、一人の死者も出さなかったという。
ネット上では、秋田県民の証言であるとして、事件は中国人による捏造であり、証拠は彼等が焼いたのだと主張する者がいるが、全て憶測の域を出ない(花岡サロンなど。なお、後述する耿諄など、徴用された中国人には中国国民党の将校もおり、中国共産党陰謀論に根拠はない)。
[編集] 損害賠償訴訟とその後
1985年8月、被害者の生き残りである耿諄は、外信を紹介する『参考消息』で、花岡事件40周年の慰霊祭が行われたことを知った。その後耿は来日したが、当時の鹿島組(現鹿島建設)が「一切の責任はない、中国労工は募集によって来た契約労働者である、賃金は毎月支給した、遺族に救済金も出している、国際BC級裁判は間違った裁判である」と主張していることを知り、鹿島と再び闘う意志を持った。1989年、耿は公開書簡として、鹿島に以下の要求を行った。
- 鹿島が心から謝罪すること
- 鹿島が大館と北京に「花岡殉難烈士記念館」を設立し、後世の教育施設とすること
- 受難者に対するしかるべき賠償をすること
1990年1月より、新美隆、田中宏、華僑の林伯耀を代理人として、鹿島との交渉が始まった。7月5日の共同発表(資料Index (工事中)「資料2 90年共同発表」参照)では、鹿島が花岡事件は強制連行・労働に起因する歴史的事実として認め、「企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」と明記された。
しかし、鹿島はその後、
- 「謝罪」は「遺憾」の意味である(残念に思うが、謝る気はないという意味)。
- 記念館の設立は絶対に認めない。
- 賠償は認められない、供養料として1億円以下を出すことはあり得る。日中共同声明で中国側の賠償請求権は放棄されている。
と主張し、実質的には責任はないという見解を示した。1995年耿諄ら11名は、中国政府が個人による賠償請求を「阻止も干渉もしない」と容認姿勢を見せたことから、鹿島に損害賠償を求めて提訴した(弁護団長:新美隆)。要求内容は、耿が最初に要求した三条件であった。
耿諄らは中国におり、また高齢であることから頻繁な来日出廷は困難だったので、実際は新美、田中、林が原告の主導権を握った。1997年、東京地方裁判所は訴追機関の20年を経過しており、時効であるとして門前払いにした。原告は東京高等裁判所に控訴したが、原告となった元作業員らの証人尋問もないまま、新村正人裁判長は和解を勧告した。2000年11月29日に東京高裁で和解が成立。被告の鹿島側が5億円を「花岡平和友好基金」として積み立て救済することで決着が図られた。和解の内容は、以下の通りである。
- 当事者双方は、1990年7月5日の「共同発表」を再確認する。ただし、被控訴人(被告。鹿島のこと)は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了承した。
- 鹿島は問題解決のため、利害関係人中国紅十字会に5億円を信託し、中国紅十字会は利害関係人として和解に参加する。
- 信託金は、日中友好の観点に立ち、花岡鉱山現場受難者の慰霊及び追悼、受難者及び遺族らの生活支援、日中の歴史研究その他の活動経費に充てる。
- 和解は、花岡事件について全ての未解決問題の解決を図るものである。受難者や遺族らは、今後国内外において一切の請求権を放棄する。原告以外の第三者より、鹿島へ花岡事件に関して賠償請求が行われた場合、中国紅十字会と原告は、責任を持って解決し、鹿島に何らの負担をさせないことを約束する。
この和解は、成立直後から日本の戦後補償を実現していく上で「画期的」なものとする報道が多かったが、野田正彰の取材によれば、この和解は弁護団側の独断によるもので、原告の本意ではなかった、という。耿は、鹿島の謝罪を絶対条件とし、記念館建設は希望する。賠償額は譲歩してもよいと田中らに意見した。耿は、和解の受け入れを迫る新美らに、負けても損害はないことを確認した上で、和解を受け入れなければ負けるというなら負けよう、負けても妥協せず、踏みとどまるならば道義的には勝利したことになり、百年後(暗に死後を意味する)も彼等の罪業を暴く権利があると意見した。しかし、新美らは和解を急ぎ、鹿島の出す金は賠償金ではないことも、法的責任を認めないことも耿には伏せた。耿は和解に同意しないが、黙認するという態度を取ったが、和解の正文は伝えられなかった。耿は和解の内容を知ると、「騙された」と怒り、そのままひっくり返ってしばらく点滴を受けていたという。耿にとってはこの結果は全面敗訴に他ならず、その上謝罪のない金を受け取ることは侮辱でしかなかったのである。従って、耿など原告・遺族の一部は「献金」の受け取りを断った(受け取った遺族もいる)。また、2001年8月、「屈辱的和解」に反対する声明を出したが、日本ではほとんど報じられなかった。
野田によれば、野田がこのことを『毎日新聞』に寄稿すると(「謝罪なき和解に無念の中国人原告――花岡事件が残した問題」2007年6月19日号夕刊)、田中と林は野田に会いたいと人を介して伝え、会談した。田中は「直前に北京に出向いて骨子を示し、耿諄さんらの了承を得た」と主張し、林は「耿諄はすっかり英雄になったつもりでいる」「耿諄は中山寮で人を殺しており、苦しんでいるはずだ」と耿を批判、さらに陰ではかつての支援者に「耿諄はすっかり痴呆化しているそうだ」と言ったという。野田は、田中らは負けて何も得られないよりも、「どこかで妥協し、カネを貰っていくのが幸せなのだ」と確信して疑わず、その結果原告の思いを軽視したと批判している。
これらの野田の主張に対して、田中宏は同じく『世界』で「花岡和解の事実と経過を贈る」とする文章を寄稿して反論し、野田が和解の基本的な事実経過について誤解していること、和解条項について原告団の了解を得ていることが主張された。
[編集] 参考文献
- 石飛仁『花岡事件』現代書館 1996年1月 ISBN 4768400744
- 旻子 著 山辺悠喜子 訳 「私の戦後処理を問う」会 編『尊厳』半世紀を歩いた「花岡事件」 日本僑報社 2005年8月
- 野田正彰 「虜囚の記憶を贈る 第六回 受難者を絶望させた和解」 『世界』2008年2月号
- 田中宏 「花岡和解の事実と経過を贈る」 『世界』2008年5月号