ノート:自己言及のパラドックス
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相対主義は自己適用しても矛盾しない。絶対に正しいことはないというのは、つまり"正しいこともあれば正しくないこともある"ということである。"絶対に正しくない"ではないのに注意。「『いかなる命題も、絶対に正しいということはない』という命題も、絶対に正しいということはない」というのも全く問題ない。『いかなる命題も、絶対に正しいということはない』という命題は相対主義者にとって正しく、相対主義を否定する者にとっては正しくない。 相対主義の主張の本質は「絶対に正しいことはない」というよりも、ある個人/文化/社会/主義/歴史観/自然観/概念枠から見れば正しいが、別のそれから見れば正しくなくなるということにある。キーとなるのは「~にとっては~」というメタ概念を呼び出す構造であってこれを見落としたために矛盾があるという結論に至るというのは典型的な間違いだ。古くはソクラテスのプロタゴラス批判に見られる。 相対主義の自己矛盾の項を丸ごと削除するべきだと思う。219.60.104.94 2005年6月26日 (日) 13:02 (UTC)
その通りかと思います。しかし、そういう(相対主義は自己矛盾を引き起こすという)主張が存在していること自体は「事実」らしいので、削除というより、より厳密な表現に修正するのが次善かと。 60.34.54.11 2005年8月1日 (月) 05:13 (UTC)
[編集] 「『クレタ人は嘘つきである』とクレタ人が言った」について
書名は失念してしまいましたが、次のような根拠によって文:「『クレタ人は嘘つきである』とクレタ人が言った」…(*)はパラドックスではないという主張を読んだことがあります。
- 「クレタ人は嘘つきである」の数学的に意味するところは「全てのクレタ人はいつでも嘘をつく」である。
- 発言の内容が真であると仮定すると、発言者のクレタ人は本当のことを言っていることになり、矛盾する。
- 発言の内容が偽であると仮定すると (すなわち、「全てのクレタ人がいつでも嘘をつくわけではない」と仮定すると)、辻褄があっている。
- よってこのクレタ人の発言は偽である。
数学的にはこちらの方が正しいと思えます。ここが数学における自己言及のパラドックスに就いての項目だったとしたら (わたしにはどちらだかわかり兼ねます)、この説をとった方がよいとわたくしは思います。--Philosacurus 2007年1月8日 (月) 01:21 (UTC)
- 既に、本文に同様の捉え方が書かれています。前提の違いによるものであり、どちらの前提を選ぶかといったこと自体は、数学とはあまり関係ありません。数学は、問題を論じる前に、前提を明確に決めますから。--132人目 2007年1月8日 (月) 13:35 (UTC)
- 「揚げ足取り--」の部分のことですか。「クレタ人は嘘つきである」の否定を「クレタ人にはうそつきも正直者もいる」とすることは「揚げ足取り」なのでしょうか。日常的な言葉の使いかたからすればたしかにそうだとは思いますが、それでよいのでしょうか。何分よくわからないもので、御教示くださるとありがたいです。--Philosacurus 2007年1月10日 (水) 13:38 (UTC)
- 何を聞きたいのかよく分からないですが、揚げ足取りという表現が嫌なのであれば、好きなように書き換えればいいだけのことです。文章の表現の問題でしかありません。--132人目 2007年1月10日 (水) 15:17 (UTC)