聖化 (プロテスタント)
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プロテスタントにおける聖化(Sanctification)とは、ギリシア語のハギアスモス(希:άγιασμος、hagiasmos)の訳語であり、キリストの贖いに依り頼んで、義とされた(義認、成義)信仰者が、聖と義との神の御像に変貌されてゆく、転機をも含む過程である。
[編集] 概説
ローマ・カトリック教会で教えているように、「ハギアゾー」(ἁγιάζω hagiazo:ハギオス〔άγιος、hagios〕の動詞形)は「聖別する」の意味があるが、時代が進むにつれて「ハギアゾー」に相当するヘブル語は「純化する」という意味も帯びてきた。イザヤ書6章などにその面が顕著である。
「ハギアスモス」は「聖化(Sanctification)」と訳されるとともに、「ホーリネス・聖め」(Holiness)とも訳されている。前者のように翻訳する場合は、聖とする過程に強調点が置かれ、後者のように訳すときには、聖とする過程の結果、そこに生じた聖い状態に強調点がある。「ハギアスモス」の語は、この双方の概念を含む。
人にとって「聖」は、「聖化・聖とする過程」の結果生じた状態(ヘブル12:14)であるが、「神の聖」は、本質的なもので「ハギアスモス」ではなく、もう一つの同系語「ハギオテース」(ヘブル12:10)によって表され、区別されている。被造物である人は、どのように聖とされても「神」になることはない。これがキリスト教と他の宗教との大きな分岐点であるとされる。
[編集] ウェスレアン神学(メソジズム)における聖化
「聖化」は生涯的な過程であるが、ジャン・カルヴァンの神学を発展させた改革派神学、またはルーテル神学では、その過程は地上では終わることがなく、肉体の死をもって完成されると説く。それに対して、聖化の過程を重視しつつ、その途上のある一点に、瞬時的な「全的聖化」(Entire Sanctification)の転機的な経験があると説くのが、ウェスレアン神学である。ここに「全的」とは、ジョン・ウェスレーの説く「キリスト者の完全」における「完全」同様、限定的な意味合いにおいてであって、瞬時的な経験をもって「きよめ」に関するすべての問題が解決するのではない。その後にも「聖化」の過程は継続するのである。「全的」とは、アダム以来の課題である生来の罪の腐敗性・「肉」の性質・罪(単数のSIN)が、きよめられた人の心中から放逐されたと言う意味において、アダムの堕罪との関連においてその影響感化を考える時、「全的」なのである。近年、この「全的」、「全き」との語が誤解を与えるとの理由で、転機的なきよめを「全的聖化・Entire Sanctification」と呼ばず「実効的な聖化・Effective Sanctification」と称する聖書学者も出てきている。
人の罪へ傾く性質は、生来の腐敗性から来るのみならず、その個人の過去の生き方、さらに、気質といった面を含めるならば、家系といった家族的な過去にも関わっているとされる。この面での罪への傾き易さを、アダム以来の人類の罪への傾き易さ「生来の罪の腐敗性」と区別して「取得された罪の腐敗性」と呼ぶ。漸進的聖化の過程は、この後者がもたらす課題の「聖化」に関わることであると理解できる。
それは他の表現を用いるならば、人格の歪みからの「きよめ」であり、キリスト教信者が、愛においてイエス・キリストの身の丈までに成長するまで、信仰に応じて継続的になされる聖霊による業である(コリント第二の手紙3:18)。この面での「聖化」は生涯的なもので、地上において完成されることはない。ウェスレアン神学における聖化論の特徴は、この過程と転機的経験との釣り合いにある。
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