竺法護
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竺法護 | |
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尊称 | 敦煌菩薩 |
生地 | 敦煌郡 |
師 | 竺高座 |
竺法護(じく ほうご、Dharmaraksa)とは、中国西晋の訳経僧。一名は竺曇摩羅刹。
[編集] 生涯
もとは大月氏の人であった。俗姓は支氏で、父祖以来、代々敦煌郡(甘粛省)に住していた家に生まれた。
8才で出家し、竺高座を師としたため、竺姓を名乗るようになった。経典の研究に専心し、方等経典が西域にあるのを聞き、師とともに西域へ遊方の旅に出た。その遊行の間に、36ヵ国の西域言語に通暁するようになった。その後、梵夾を中国に将来した。
当時の人たちは、竺法護のことを尊称して、敦煌菩薩と呼んだと伝えられる。「出三蔵記集」にも、経典が中華に具通したのは、ひとえに竺法護の力によるものである、という評価を下している。
[編集] 訳経
竺法護が漢訳した経典は、「光讃般若経」、「正法華経」、「維摩詰経」等、約150部300巻と称される。鳩摩羅什の訳出した経典とともに、玄奘の訳経に対して「旧訳」(くやく)と呼ばれる経典の中心をなしている(鳩摩羅什の訳経を旧訳、竺法護らの鳩摩羅什以前の訳経を「古訳」(こやく)と呼ぶこともある)。その訳経活動は、「出三蔵記集」の紀年によれば、266年(泰始2年)より308年(永嘉2年)に及んでおり、約40年に及ぶ。また、その訳経場所を見ると、敦煌・酒泉(甘粛省)・長安(陝西省)・洛陽(河南省)と、各地を遊方しながらの訳経であったことがわかる。
また、その訳経の量だけでなく、質の面においても、竺法護の訳出経典は重要な位置にある。「正法華経」は鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」の登場以前に、法華信仰および観音信仰を中国にもたらした経典である。「維摩詰経」は、清談全盛の西晋から東晋にかけての貴族社会の風に馴染む教えで深く浸透した。「光讃般若経」も、老荘思想がもてはやされた西晋の思想界に受け入れられた般若経典である。