立見尚文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
立見 尚文(たつみ なおふみ、弘化2年7月19日(1845年8月21日) - 明治40年(1907年)3月6日)。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。桑名藩士、のち陸軍大将。男爵。父は桑名藩士町田伝大夫。
[編集] 桑名藩士時代
松平定敬が桑名藩を継いだときに小姓となる。少年期より風伝流の槍術、柳生新陰流の剣術の使い手として知られる。湯島の昌平坂学問所に学ぶ。
藩主松平定敬の京都所司代就任に伴い京都で藩の周旋役を任される。その後幕府陸軍に出向。歩兵第3連隊に籍を置きフランス式用兵術を学ぶ。
徳川慶喜謹慎後も抗戦を主張し、鳥羽・伏見の戦いにおいて大敗を喫した桑名藩の軍制を立て直す。その後土方歳三と連繋し宇都宮城陥落に功あり。
北越戦争では雷神隊隊長としてゲリラ戦を展開。官軍を度々壊滅、敗走させる。特に朝日山の戦闘では、奇兵隊参謀時山直八を討ち取る殊勲を挙げる。その後会津若松城に赴き、城下の戦いで敗走。出羽国寒河江において最後の抵抗をするが、奥羽列藩同盟の中で最後まで抵抗していた庄内藩が降伏した後、明治政府軍に降伏。幕末から明治期において最高の指揮官と言われた。
[編集] 明治陸軍時代
敗戦の後は謹慎生活を送り、しばらく世間から離れて過ごしていたが、士族の反乱が相次いで起きるとその天才ぶりが評価され、請われて明治陸軍入りする。西南戦争では陸軍少佐として新撰旅団一個大隊を指揮。日清戦争では陸軍少将で歩兵第十旅団長。その後、陸軍大学校校長、台湾総督府軍務局局長。
なお、八甲田山雪中行軍を行なったのは彼が師団長だった時の第8師団下の歩兵第4旅団歩兵第31連隊と第5連隊である。第31連隊は福島泰蔵大尉のもと成功したが、第5連隊は山口少佐、神成文吉大尉以下のもとほぼ全員が凍死するに至った。
日露戦争では陸軍中将として第8師団を率い、黒溝台会戦において壊滅寸前の日本軍を窮地から救う。この時、第8師団将兵に向けて行った訓令で、「奥州の健児たる者、他師団が5、6度の会戦で受けた損害を1度で負うべし」と訓令壇にしていた長持ちを踏み抜いた。という有名な逸話は司馬遼太郎が創作したフィクションである。戦後は黒溝台の戦死者の遺族を詫びて回った、という逸話も司馬遼太郎の小説によるフィクションである。
旧幕府軍出身者としては珍しく陸軍大将に昇進。薩長出身の将軍たちも、戊辰戦争時の苦い経験から、立見の前では頭が上がらないことが多く、特に山県有朋は北越戦争の際、何度も煮え湯を飲まされていることから、生涯避けていたという話もある。
日露戦争の際、薩長出身の幹部格が幕末の話をしていると、立見から「お前はあの時私の目の前から逃げ出した」と 言われて、頭が上がらなかったと言われている。
[編集] 立見尚文を題材とした作品
- 中村彰彦『闘将伝 小説 立見鑑三郎』(角川文庫、1998年) ISBN 4041906067