磯津村
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磯津村(いそつむら)は、1955年(昭和30年)まで愛媛県西宇和郡にあった村であり、現在の八幡浜市の最北部、伊予灘に面した農漁村であった。
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[編集] 地理
現在の八幡浜市の最北部。佐田岬半島の基部北側で、北は伊予灘に面している。背後には山が迫り、南に瞽女峠を境として宮内村と接する。海岸線に沿って東は喜多郡出海村に、西は西宇和郡伊方村に接している。当村の付近は中央構造線近くの断層崖海岸が続き、平地は乏しい。磯崎(いさき)集落付近にわずかに、平地がみられ、民家や公共施設もこの付近に集中している。
- 地名の由来
- 合併時に主要集落であった磯崎(いさき)、喜木津(ききつ)から一字ずつ取って新たに命名した。
[編集] 歴史
- 古代〜中世
磯崎は摂津氏入国の際の上陸地であり、八幡浜南方摂津安親の所領地であった。天正16年の浅野長吉の検地によると、磯崎浦442石との記録がある。
- 藩政期
- 宇和島藩領。
- 1662年(寛文2年) 宇和島藩と吉田藩との領地の交換により、喜々津と広早は飛び地となるが吉田藩の領地となった。
- 1696年(元禄9年) 当地を含む佐田岬半島の浦々は保内組に属し、川之石浦の雨井(あまい)に町場が形成された。
- 1750年(寛延3年) 喜木津・広早騒動(農民騒動)
- 1804年(文化元年) 二宮敬作、磯津に生まれる
- 明治以降
- 1889年(明治22年) 市制・町村制実施により、磯崎、喜々津、広早(ひろはや)が合併し磯津村となる。西宇和郡に属す。
- 1890年(明治23年) 大字磯崎に駐在設置さる。
- 1922年(大正11年) 電灯ともる
- 1940年(昭和15年) 県道川之石磯崎長浜線が開通
- 1955年(昭和30年) 宮内村、川之石町、喜須来村との合併により、保内町となる。
磯津村の系譜 (町村制実施以前の村) 磯崎 ━━━┓ (明治期) ┃ 町村制施行時 喜木津 ━━━╋━━━ 出海村 ━━━━━━━━━━━━┓ ┃ ┃ 広早 ━━━┛ ┃ ┃ 宮内村 ━━━┫ (昭和30年3月31日) 川之石町 ━━━╋━━ 保内町 喜須来村 ━━━┛ (注記)宮内村ほかの合併まで、及び保内町の平成の合併の系譜については、それぞれの町村の記事を参照のこと。
[編集] 地域
集落は、磯崎、喜木津、広早が主たる集落。大字として、磯崎、喜木津、広早があるが、いずれも明治の合併前の旧村。保内町になっても、大字として受け継がれた。
磯崎は背後の山麓で柑橘類の栽培も行なわれている。磯崎とその西隣の夢永にわずかに水田。磯崎の中心部に役場をはじめとした行政施設、教育施設などが立地している。
喜木津、広早はいずれも柑橘を中心とした農漁村。
[編集] 行政
- 役場
- 大字磯崎におかれていた。
[編集] 産業
農産物では、米、麦、甘藷、櫨、ウンシュウミカン、甘夏柑などの柑橘類を産する。
[編集] 交通
鉄道は通っていなかった。今日の予讃線のルートについて、隣村の日土村経由の構想もかつてはあった。
東の長浜とのバス路線があった。
[編集] 出身者
- 二宮敬作 磯崎出身。記念公園がある。
[編集] 名所
- 夢永海水浴場