玄ボウ
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本来の表記は「玄昉」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
玄昉 | |
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? - 746年7月15日 | |
没地 | 筑紫観世音寺 |
宗派 | 法相宗 |
師 | 義淵 |
玄昉(げんぼう、? - 天平18年6月18日(746年7月15日))は、奈良時代の法相宗の僧。俗姓は阿刀(あと)氏。
[編集] 略歴
義淵に師事。717年(養老元年)入唐して智周に法相を学び、約20年後の735年(天平7年)経論5000巻の一切経を携えて帰国。736年(天平8年)封戸を与えられた。翌737年(天平9年)僧正に任命されて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母藤原宮子の病気を看病して賜物をうけた。
吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人々の批判を受け740年(天平12年)藤原広嗣は、玄昉を排除しようと九州で兵を起したが失敗に終わった。翌741年(天平13年)千手経1000巻を書写供養している。しかし、藤原仲麻呂が勢力を持つようになり、745年(天平17年)筑紫観世音寺別当に左遷され、封物も没収された。翌746年(天平18年)、任地で没した。
[編集] 伝承
この玄昉に関しては奇怪な逸話が多い。まず史書である『続日本紀』の彼の卒伝に、「藤原広嗣が霊の為に害せらる」とあり、当時広嗣の怨霊によって彼が死んだとの考えがあったことが知られる。
これが後世の書物になると話があらぬ方向に広がっていく。
- 『元亨釈書』には、空中から手があらわれて玄昉を連れ去り、後日、頭のみが興福寺に落ちており、これが広嗣の霊のせいであったという記事がある。
- 『元亨釈書』には、「藤室と通ず」(藤原氏の妻と関係を持った)とあり、これは藤原宮子のことと思われる。宮子との密通の話は『興福寺流記』『日本霊異記』『七大寺年表』『扶桑略記』などにもみえる。
- 『今昔物語集』『源平盛衰記』には、光明皇后と密通し、それを広嗣に見咎められたことが乱の遠因になったとしている。
もちろん、いずれも後世の史料であり信用する必然性はとぼしい。やはり早くから破戒僧と信じられていた道鏡と混同された形跡もみられる。しかし、『日本霊異記』に早くも密通記事がみえていることからみて、玄昉の栄達が妬まれたこと、またそこに宮子との関係を想像したひともいたこと、さらには彼の没落と死去が広嗣の怨霊と結びつける理解のあったことは認められるだろう。