瀧川家
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瀧川家は日本の医家。鳥取県境港市を拠点としている。遠祖は戦国時代の武将滝川一益とされる。
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[編集] 概要
瀧川家11代目一穂が愛知医専を卒業し後の昭和12年(1937年)、境港に於いて病院を開業する。当時新しい様式の病院とあって盛業だったという。
[編集] 系譜
- 瀧川氏 滝川一益四男の知ト斎は鳥取池田家へ御預けとなりこの知ト斎の三男十左衛門一路が家督を継いで池田光仲に召抱えられた。その四男権左衛門は浪人となったが医術を学んで帰り1638年兄一路の家より分家、独立しト玄斎一賀と称して鳥取で医業をした。このト玄斎一賀が鳥取の医家滝川家の初代となる。二代目一貞は一賀の長男で父の医業を継いだが子供はなく弟の一虎が三代目を継いだ。一虎は住居を河村郡橋津村(旧羽合町、現湯梨浜町)に移し医業をした。六代目孝章は婿養子であり大崎村三角氏の出身。七代目一方もまた婿養子であり鳥取藩士佐藤信実の六男。十代目一敏は鳥取滝川家の本家筋である藩士滝川一政半内の三男として生まれ1884年養子縁組が成立し大坂に出て緒方病院等で医術研修ののち医師開業試験に合格し橋津で開業した。十一代一穂は下浅津村に庄屋の子としてうまれ一敏の養子に入り境港に出て病院を開業した。一穂は若い頃から俳句に親しみ俳号を一甫と称し松風吟社をつくり俳誌「松風」を発刊した。十二代一尚は米子医専(現・鳥取大学医学部)卒業。現在は境港市日ノ出町にて開業している。
一益━知ト斎┳一路 ┗一賀┳一貞 ┗一虎━一秀━一信…孝章…一方…一致…一貫…一敏…一穂━一尚
[編集] 参考文献
- 『続 因伯の医師たち』 森納