河野通直
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[編集] 河野通直 (弾正少弼)
河野 通直(こうの みちなお、明応9年(1500年) - 元亀3年(1572年))は河野氏の当主。弾正少弼。
河野通宣(刑部大輔)の嫡男。1519年、父が死去したため家督を継いだ。自身に嗣子がなかったため、娘婿で水軍の頭領として有能であった来島通康を後継ぎに迎えようとしたが、家臣団の反発と、予州家の当主・河野通存が家督をめぐって争ってきたため、来島通康とともに湯築城から来島城へと退去することになる。その後、家督を通存の子通政に譲って権力を失うが、通政の早世後には河野家の実質的な当主の座に復帰する。
近年の研究において来島通康と当主の座を争い、従来予州家当主と言われてきた通政(後の晴政)は通直の実子である可能性が高いことが証明されつつある。 また、来島騒動と呼ばれるこの争いの背景には単なる家督相続争いではなく、大内氏、大友氏、一条氏、尼子氏、安芸武田氏などが絡んだ当時の瀬戸内での権力闘争が河野家内部での外交方針の対立という形で投影されたものと言える。
[編集] 河野通直 (伊予守)
河野 通直(こうの みちなお、永禄7年(1564年) - 天正15年7月14日(1587年8月17日))は、河野氏最後の当主。河野通吉の子も言われるが定かではない。伊予守。幼名を牛福丸。
先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって1568年に後を継いだ。しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。 通直は、若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後、服従その人柄に心従したという。豊臣秀吉による四国征伐が始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際通直は、城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡してしまった。通直は隆景の本拠地である竹原にて1587年に病死(隆景が通直を弔った墓は竹原に現存)。宍戸元秀の子を後継者とし、養子に迎え、河野通軌と名乗らせた。
これまで通直の実父は河野(池原)通吉の子と言われてきたが、実母にあたる宍戸隆家の娘についての検証から、来島通康の子として生まれ、その後実母が先代当主である河野通宣に再嫁することで河野家の正当な後継者としての地位を手に入れたとする研究が進んでいる。 また、その血縁関係もあり、四国征伐以前から通直政権は毛利氏、小早川氏の強い影響力により支えられていたことも確認されつつある。
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