河野通政
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河野 通政(こうの みちまさ、大永2年(1522年) - 天文12年(1543年))は河野氏の当主。晴通とも言う。 父は河野通存、養父は河野通直 (弾正少弼)。弟に石川通昌、河野通宣、野島直信。
[編集] 生涯
河野通存の子で、河野氏の分家である予州河野氏の当主であった。しかし本家の当主であった河野通直が、娘婿で水軍の頭領として有能であった来島通康に家督を譲ろうとしたことに反発し、通直と対立する。
この争いは来島騒動ともよばれる軍事抗争にも発展するが、通政は河野氏の家臣団の支持を集め、また豊後の大友義鑑の仲介もあって、通直を隠居させ、河野氏本家の当主となった。しかし1543年、突如として急死した。嗣子が無かったため、後を弟の河野通宣が継いだ。
[編集] 備考
近年の検証で、弟とされる河野通宣共々、予州家の人間ではなく河野通直とは実の親子関係にあり、来島騒動も河野本家筋内部での家督争いであったことが明らかになりつつある。
[編集] 関連項目
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