武則天
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政権 | 周 |
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廟号 | (なし) |
諡号 | 則天順聖皇后 |
姓・諱 | 武曌 |
生没年 | 624年 - 705年 |
在位期間 | 683年 - 705年 |
父 | 武士彠 |
母 | 楊夫人 |
陵墓 | 乾陵 |
元号 | 光宅:684年 垂拱:685年 - 688年 永昌:689年 載初:689年 - 690年 天授:690年 - 692年 如意:692年 長寿:692年 - 694年 延載:694年 証聖:695年 天冊万歳:695年 万歳登封:695年 - 696年 万歳通天:696年 - 697年 神功:697年 聖暦:698年 - 700年 久視:700年 - 701年 大足:701年 長安:701年 - 704年 |
武則天(ぶそくてん、623年?-神龍元年11月26日(705年12月16日) 在位690年-神龍元年1月24日(705年2月22日))は中国武周朝の創始者。唐の高宗の皇后。姓は武。諱は照または曌(照に代わる則天文字。後述)。謚は則天大聖皇后。中国史上唯一の女帝となり武周を立てた。日本では則天武后の名前で呼ばれる事が多いが、この名前は、武則天が皇帝として即位した事実より、遺言により皇后の礼で埋葬された事実を重視した呼称である。最近の中国では即位した事実を重視して武則天と一般的に称されるようになってきている。漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」と称されている。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 前歴
武照は利州都督武士彠と楊夫人の間に次女として雨の降る日に生まれた。そして武照が生まれて間もない頃、袁天鋼という名道士が来て武照の相を占い、人相を見た袁天鋼は必ずや天に昇ると述べたという伝承がある。これを聞いた武士彠はその場にいた者たちにこの事を忘れさせたが、乳児としての武照の容貌が極めて美しかったこともあり、将来の皇后を期待した武士彠はその予言を実現すべく高度な教育を与え、幼名を媚娘と命名した。
武照が幸せな生活を送ったのは父が死去する8歳までであった。父の亡き後媚娘は異母兄弟に虐げられる生活を送ることとなった。少女期の武照は漆黒の長髪、特徴的な切れ長で大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、大きな胸、見る者を魅了する媚笑、聡明な頭脳を備えていたと史書に記録されている。
14歳で太宗の後宮に入り才人(妃の地位。正五品)となった。当初は太宗の寵愛を受けていた。しかし「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」と流言があり、武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらすことを恐れた太宗は次第に武照を疎遠にしていった。李君羨という武将が「武が栄える」の『武』ではないかと疑惑を持たれ処刑された事件があったが、その処刑でも太宗は武照がいかに魅惑的であろうとも武照と距離を置き続けた。こうした状況下で李治が武照を見出すこととなった。太宗に殺害されることを恐れた武照は太宗の子である李治を籠絡、李治は妄信的に武照を寵愛するようになる。この時点で太宗は未だに媚娘の貞操を犯していなかったという噂もあった。
太宗の崩御にともない出家することとなったが、額に焼印を付け仏尼になることを避け、女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなった。
その頃の宮中では、高宗の皇后であった王皇后と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃から逸らす為、高宗に武照の入宮を推薦した。武照が昭儀(後宮における上から5番目の地位)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃から逸れたが、王皇后もまた遠ざけられるようになった。
[編集] 立后
655年(永徽6年)、高宗は王皇后を廃し武照を皇后に立てる事を重臣に下問した。この時の朝廷の主な人間は太宗の皇后の兄である長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた褚遂良(ちょすいりょう。褚は衣偏に者)、高祖李淵と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の4人である。長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣はこの会議には欠席していた。その後高宗が李勣に下問したところ立后が内廷(皇帝の私事)の件であり、外廷(官僚)が容喙すべき問題でないと返答し立后の方針が決定された。後世の史家はこの李勣の返答が武則天の専横を生んだものとして非難している。
王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)は武后により罪に問われ、四肢切断の上、酒壷に投げ込まれた。また遺族の姓を侮蔑的な意味を込めた字である「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)と「梟」に改称させた。両者を酒壷に投げ込む際に際武后は「骨まで酔わせてやる」と言ったと伝えられる。ただしこの極刑は武照の独創によるものではない。蕭氏は死の間際に武照が鼠に生まれ変わり、自身は猫に生まれ変わって食い殺してやろうと呪いながら死んだとされ、後年の武則天は宮中から猫を排除したとされる。
[編集] 垂簾政治
皇后となった武則天は病気がちな高宗に代わり垂簾政治を行った。初唐は隋と同じく基本的に貴族政治であり、関隴貴族集団と呼ばれる貴族たちが権力を握っていた。隋代から科挙は行われていたが、この頃は科挙官僚は低い役職にしか登用されず、科挙による人材登用とそれによる国政運営には限界があった。武則天は貴族政治を嫌い、新しい人材を積極的に登用した。この時期に登用された人材としては狄仁傑、姚崇、宋璟などがいる。これらはみな低い身分の出身であり、貴族政治体制では出世が見込めない人物であった。武則天はただ単に低い身分に主眼を置いたのではなく、その登用には才能と忠誠を重視している。姚崇と宋璟は後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いた人物である。
武則天は外交も積極的に行い、660年(顕慶5年)には新羅の要請を容れ百済討伐の軍を起こす。百済を滅ぼした後の日本と百済の遺臣連合軍との白村江の戦い(中国の史書では白江之戦と表記される)にも勝利し、更にその5年後には孤立化した高句麗を滅ぼし、満洲地方の安定を実現している。
出自を問わない才能を発掘する一方で、武則天は娘の太平公主や薛懐義、張易之・張昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思、武承嗣ら親族たる武氏一族を重用し、その専横を招いた。また佞臣と称される許敬宗などを任用し、密告政治により反対者を排斥、来俊臣、索元礼、周興ら酷吏が反対派を監視する恐怖政治を行った。この状況に高宗は武后の廃后を計画するが、武后はこの計画を事前に察知、政変を未然に防止している。
この時期の逸話としては高宗が晩年病を得た際、高宗の希望により鍼治療を実施することになったが、それを知った武后は高宗を殺害する謀略として治療を行わせなかったという故事が伝わる。
683年(弘道元年)、高宗が崩御すると高宗との間の息子である中宗が即位するが、中宗の皇后である韋后が自分の血縁者を要職に登用したことに端を発し、太平公主を使って中宗を廃立、中宗の弟である睿宗を新たに皇帝に擁立した。睿宗は武后の権勢の下、自ら傀儡に徹した。
武則天に対し粛清された李姓の皇族たちは反乱を起こすがすぐに鎮圧された。民衆は武則天を恐怖と感じながらも、その朝政は生活を安定させるものであったため、反乱軍に同調するものが少なく、大勢力に発展しなかったためである。
[編集] 即位
反乱鎮圧の後、武則天は女帝出現を暗示する預言書(『大雲経』と呼称される仏経典)を全土に流布させ、また周代に存在したと言われる明堂(聖天子がここで政治を行ったと言われる)を宮城内に建造させ、権威の強化を計画するなど自ら皇帝の地位を求める準備を行った。ただし帝位簒奪をいつの時点で企図したのかについては研究者の間でも定説がない。
690年、ついに武則天は自ら帝位についた。国号を周とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李の姓に代えて武姓を賜ることとなった。この王朝を後世の史家は武周と称している。
帝室が老子の末裔であるとされ道先仏後であった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじた。武則天は諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、この事を記したと言われる大雲経を作り、これを納めるための大雲経寺という寺院を全国の州にそれぞれ作らせた。これが後の日本の国分寺制度の元になった。
洛陽郊外の龍門山奉先寺にある高さ17mの盧舎那仏の石像は、高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武即天をモデルにしたと言われており、東大寺大仏の手本となった。
[編集] 晩年
晩年の武則天は病床にあることが多くなり指導力の衰退が顕かになってきた。この状況に唐復活の機運は高まり705年1月24日、宰相張柬之により武后は譲位を迫られ、中宗が復位し国号も唐に復する事となった。しかし武氏勢力は李氏をはじめとする朝廷要人と密接な姻戚関係を構築していたこともあって、唐朝再興に伴う粛清は部分的なものであり、太平公主や武三思など武氏勢力の多くは朝廷内での地位を保持した。そのため武氏勢力との宥和の必要性もあり唐王朝は退位した武照に則天大聖皇帝の尊号を贈り、その後まもなく武后は死去した。
[編集] 謚号
遺詔には「帝号を取り去り則天大聖皇后と称すべし」とあったとされる。唐王朝での謚号はその後も幾多の変遷を経る。
- 710年(唐隆元年)、中宗、天后と改める
- 710年(景雲元年)、睿宗、大聖天后と改める
- 712年(延和元年)、睿宗、天后聖帝と改める
- 716年(開元4年)、玄宗、則天皇后と改める
- 749年(天寶8年)、玄宗、則天順聖皇后の謚を追加する
[編集] 変革者
武則天は改名を非常に好む人物であった。660年には皇帝と皇后をそれぞれ天皇と天后と改名している。皇后として国政に容喙している実態を、皇后と皇帝を比肩するかのような名称に改めることによって追認させようとする狙いがあったとされる。他にも洛陽を神都と改めている。
武則天は漢字の改変も実施し、則天文字と称される新しい漢字を作っている。その数は20字程度であり、今日は使用されることは殆どないが、唯一の例外として圀の字だけが日本で徳川光圀・本圀寺に使用されている。この圀は国の旧字体である「國」を、内に「惑」を含んでいるために忌み嫌い、代替として作られ国構えで「八方」を囲んだものである。他にも自らの名「照」を「曌(明+空(空の上に日と月を並べた))」として造字するなど思想的な理由に基づくものであった。
武則天はまた元号も頻繁に変更した。特に漢字4字の元号は奈良時代の日本にも影響を与えている(武則天より約五十年後、女性天皇の孝謙天皇(称徳天皇)の治世において漢字4字の元号が使われた)。元号に関しては下記の一覧も参照の事。
[編集] 年号
天后時代
聖神皇帝時代(武周)
- 天授 690年 - 692年
- 如意 692年
- 長寿 692年- 694年
- 延載 694年
- 証聖 695年
- 天冊万歳 695年 - 696年
- 万歳登封 696年
- 万歳通天 696年 - 697年
- 神功 697年
- 聖暦 698年 - 700年
- 久視 700年
- 大足 701年
- 長安 701年 - 704年
[編集] 後代
前近代において武則天の評価は否定的である。簒奪を計画し失敗した韋后と並べ武韋の禍と称されるなど負のイメージで語られることが多い。しかし漢の武帝と共に「不明というべからず」とした宋代の洪邁や、「女中英主」と評価した清代の趙翼のような例も散見される。
毛沢東夫人で文化大革命を指揮した江青は、武則天を称揚する運動を興した。江青と文革が党に否定された後も武則天再評価の流れは確立しており、武則天を主人公とした連続テレビドラマが製作されたこともある。
[編集] 参考文献
[編集] 小説
- 『則天武后』上・下(津本 陽、幻冬舎)
- 『女帝 わが名は則天武后』(山颯(シャン・サ)著、吉田良子訳 草思社、2006 ISBN 4794215037)
[編集] 関連ドラマ
- 一代女皇- 役(武媚娘)、 役(陳南英)、
- 至尊紅顔-賈靜雯役(武媚娘)、趙文卓役(李君羨)、 役(徐盈盈)
- 大明宮詞- 役(武媚娘)、 役(太平公主)
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