梅村騒動
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梅村騒動(うめむらそうどう)とは、明治時代、高山県(旧飛騨国、現岐阜県飛騨地方)で発生した、大規模な騒動である。
明治政府による急激な改革と、保守的な旧天領の人々との間で起きた事件である。
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[編集] 経緯
[編集] 梅村速水の知事就任と改革
版籍奉還により1868年(明治元年)、旧幕府天領であった飛騨国は飛騨県となる。すぐに名称は改称され、高山県となる。水戸藩士梅村速水は、若干27歳にして初代高山県知事に就任する。
梅村は、孝子・節婦をほめ、生活に苦しむ者の救済方法として、高山県宮の富札を発行してその金利を厚生面に使おうとするなどの改革を進める。また、財政の安定のために、日用品まで専売制にした上、各種の商売を許可割にして運上金と称する税金を徴収したことから、県民の生活は苦しくなってくる。新しく郷兵を整えたことが火消しとの対立を招くこととなる。
旧天領であり、保守的な考えの強い県民と、梅村知事の急激な改革は、両者を対立を招くこととなる。梅村は神官や僧侶を役所に集めて教諭方に任じ、各村々へ派遣して新しい政治に従うよう説得にあたらせ、事態の収拾に努めることとなる。
[編集] 梅村騒動の発生
1869年(明治2年)2月29日、梅村の京都出張の留守を機に、米の売下げ問題がきっかけとなり住民が蜂起する。これが梅村騒動始まりとなる。高山町(現高山市)では打ちこわしが発生し、これが飛騨一帯に飛び火することとなり、人々は、教諭方に任ぜられた神官や僧侶を梅村の一味と考えて、それらの居宅を次々と襲いかかった。
梅村は、騒動が起きたことを京都で知り、すぐに飛騨に戻り鎮定しようとする、しかしすぐには入らず、一旦、飛騨萩原(現下呂市)で宿泊することとなる。これを知った群集は、その道すがら梅村に加担した人の家をこわしながら、梅村を襲うため、槍、銃竹槍をもち武装して続々と萩原へ向かった。
3月10日、梅村は銃撃に遭い、肩を負傷する。身の危険を感じた梅村は、苗木県に逃げ延びる。群集は苗木県福岡村(現中津川市)まで迫るが、福岡村の庄屋の説得や、苗木県兵との争いを避けるために、高山県に戻ったという。
[編集] 梅村騒動のその後
この事態を重く見た政府は、直ちに監察司を高山に派遣して沈静化。させる。3月14日には梅村知事を罷免し、騒動の責任をとらせて収監させる。
翌年の10月26日、梅村速水は判決未決のまま獄中にて病死する。
高山県は、1871年(明治4年)、旧信濃国南部(伊那県、飯田県、高島県、高遠県、松本県、名古屋県信濃国部分(尾張藩領)であった木曽郡)と筑摩県となる。さらに1876年(明治9年)筑摩県の旧高山県の地域は旧岐阜県と合併、現在の岐阜県となる。