松本幸四郎 (5代目)
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五代目松本幸四郎(ごだいめ まつもとこうしろう、明和元年(1764年) - 天保9年5月10日(1838年7月1日)は江戸の歌舞伎役者。江戸後期の名優で俗に「鼻高幸四郎」と呼ばれた。俳名は錦升、金升、錦江。雅号は秋夜亭。屋号は高麗屋。
父は四代目松本幸四郎。1770年(明和7年)市川純蔵と名乗り江戸中村座で初舞台。三代目市川高麗蔵を経て1801年(享和元年)11月、父の男女川京十郎改名とともに五代目松本幸四郎を襲名。1838年(天保9年)5月、中村座出演中に倒れて死去。
はじめ立役を演じていたが実悪に転じた。鋭い目つきと高い鼻が凄みを与え、東洲斎写楽・初代歌川豊国・三代目歌川豊国の芝居絵にもその芸風が窺われる。実悪では三都随一、古今無類と最大級の賛辞を受けた。彼が舞台で見得をするとあまりの怖さに子供が泣出したと言われている。1805 (文化2)年11月市村座『けいせい吉野鐘』では評判記「役者大極丸」に「年若なれどもお江戸の大立者、実事実悪とも兼備たるお上手故めったにのぼす事ではないわいの」と書かれている。
当り役は『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の松王、『仮名手本忠臣蔵』の高師直、『義経千本桜』の権太。とくに『伽羅先代萩』の仁木弾正は生涯の当り役とされ、現行の舞台でも、左眉尻の黒子に、三つ銀杏と四つ花菱の文様が衣装に用いられ幸四郎に敬意を表している。又、『菅原伝授手習鑑・車引』の松王の横向きの見得は鼻が高かった幸四郎の特徴を活かして編み出されたものである。
新作では四代目鶴屋南北と組み、時代物では『馬盥』の武智光秀のような謀反人、世話物では『四谷怪談』の直助権兵衛、『謎帯一寸徳兵衛』の大島團七などの悪役を演じた。いずれも冷酷な役どころで、とくに世話物では庶民の生々しい姿を写実的に演じ新しい芸風を確立。その後の歌舞伎に大きな影響を与えた。
子に六代目松本幸四郎、養子に三代目市川壽美蔵がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺。
松本幸四郎 |
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