東舞鶴
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東舞鶴(ひがしまいづる)とは、舞鶴市の東半分。1943年5月26日までの東舞鶴市に相当する。
[編集] 概要
東舞鶴は、一般に、与保呂、八島、北吸などの東半分の地域を指し、舞鶴市役所が置かれている。又、城下町として栄えた西舞鶴と違い、1901年に舞鶴鎮守府が設置され、軍港として発展した。その際、現在の東舞鶴駅前にあたる浜地区は、京都市に倣って碁盤目の道路網を形成している。
産業面では舞鶴港があり、舞鶴の総工業出荷額の約20%を占めるといわれるユニバーサル造船、舞鶴・平工業団地には日本板硝子などの企業も多く立地している。又、旧日本海軍が整備した与保呂川水源は今も東舞鶴の水源地として多くの市民の飲み水となっている。
[編集] 東舞鶴市
東舞鶴市は、1938年(昭和13年)8月1日に市制を施行したが、太平洋戦争(大東亜戦争)の拡大により東西舞鶴に軍需施設が点在するようになり、「軍都の一括管理」の名目のもと、海軍によって合併を要請され、1943年5月27日には(旧)舞鶴市(西舞鶴)と対等合併し、新たに舞鶴市が設置されて消滅した。
しかし、東舞鶴は明治時代からの軍港から急速に発展した都市にあるのに対して、西舞鶴は戦国時代からの城下町から発展した都市であったため、住民感情に大きな相違があった。そのため、1950年(昭和25年)には住民投票で舞鶴市を再び東西に分割する案が成立するが、京都府議会によって否決されて終った。
そのわだかまりは今でも残っているとされ、現在においても市長選挙や府議会議員選挙などにおいて、東と西の対立は否めないものがあるといわれる。