暁 (吹雪型駆逐艦)
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艦歴 | |
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発注 | 昭和2年度艦艇補充計画 |
起工 | 1930年2月17日 |
進水 | 1932年5月7日 |
就役 | 1932年11月30日 |
その後 | 1942年11月13日戦没 |
除籍 | 1942年12月15日 |
性能諸元(新造時) | |
排水量 | 基準:1,680トン 公試:1,980トン |
全長 | 118.5m |
全幅 | 10.36m |
吃水 | 3.24m |
機関 | ロ号艦本式缶(空気予熱器付)3基 艦本式タービン2基2軸、50,000馬力 |
最大速力 | 38ノット |
航続距離 | 14ノット/5,000海里 |
燃料 | 重油475トン |
兵員 | 233名 |
兵装 | 50口径12.7cm連装砲3基 13mm単装機銃2基 61cm3連装魚雷発射管3基 |
暁(あかつき)は、日本海軍の駆逐艦。吹雪型(特型)の21番艦(III型の1番艦)である。艦名は暁型駆逐艦1番艦に続いて二代目。
目次 |
[編集] 艦歴
1930年 (昭和5年)2月、佐世保海軍工廠で起工。1932年(昭和7年)5月に進水し、同年11月に竣工した。竣工と同時に第10駆逐隊に編入され、「狭霧」「漣」と行動を共にした。
1933年(昭和8年)10月、第2水雷戦隊に編入。1935年(昭和10年)11月、予備艦となり翌年2月まで性能改善工事を実施した。
1937年(昭和12年)7月、第10駆逐隊は第2艦隊第4水雷戦隊に編入され、日中戦争のため中国北部で船団護衛に従事。同年9月に第4水雷戦隊は第3艦隊に編入され、中国南部で沿岸封鎖作戦に従事した。同年10月、第4水雷戦隊は第4艦隊に編入され、杭州湾上陸作戦に参加した。1938年(昭和13年)4月、第10駆逐隊は予備駆逐隊となった。
1939年(昭和14年)11月、第10駆逐隊は解隊となり、「暁」は第6駆逐隊に編入され同型艦「響」「雷」「電」と行動を共にした。1940年(昭和15年)11月、第6駆逐隊は第1艦隊第1水雷戦隊に編入された。
太平洋戦争開戦を控え、1941年(昭和16年)11月、南方部隊本隊に加わり「響」と共に佐伯湾から出撃。12月11日、カムラン湾に入港し周辺の哨戒に従事。12月20日、リンガエン湾上陸作戦を支援。
1942年(昭和17年)1月11日、セレベス島メナド攻略戦を支援。以後、ジャワ作戦船団護衛、バタビア沖海戦などに参加。3月10日、フィリピン攻略作戦に参加。3月17日、タヤバス湾で駆逐艦「響」「雷」とともに潜水艦「パーミット」(USS Permit, SS-178)を撃破。その後、横須賀港に帰投。4月に浦賀で入渠整備を行った。北方部隊所属となり、5月22日、徳山港を出港し、第四航空戦隊を大湊まで直衛し、6月7日、キスカ島攻略作戦に参加。空母「隼鷹」をキスカ島まで護衛。7月25日、横須賀に入港し整備補給の上、大湊方面で活動した。
9月1日、空母「瑞鳳」の警戒艦となり呉港からトラックへ進出、9日から空母「雲鷹」をカビエンまで往復で護衛した。9月29日、沖輸送船団を佐伯港からサイパンまで護衛し。10月にはガダルカナル島増援作戦に従事した。
10月25日、ルンガ沖海戦に参加し、駆逐艦「雷」、「白露」とガダルカナル島海面の米艦を攻撃。米大型曳船「セミノール」などを撃沈したが、陸上砲台からの砲弾が後部三番砲塔下に命中し、戦死者4名が出た。
11月3日、トラックを出撃し第11戦隊の戦艦「比叡」「霧島」を護衛しガダルカナル島へ向かい、12日夜ルンガ泊地に突入し、13日午前2時頃に米艦隊と交戦し戦没した(第三次ソロモン海戦)。12月15日に除籍となった。
[編集] 戦没の状況
戦没の状況については諸説[1]あるが、生存した水雷長・新屋徳治中尉(海兵68期)の証言に基づく著作[2]によると次のとおりである。
1942年11月13日、「暁」は戦艦護衛の任務につき、日本艦隊の先頭に位置していた。米艦隊と次第に接近する中、午前1時50分、第三次ソロモン海戦・第一夜戦の劈頭、「暁」の探照灯が米艦隊巡洋艦に照射された。そのため米艦隊からの砲弾が「暁」に集中し、一瞬にして航行不能に陥った。艦橋内では、山田勇助司令、高須賀艦長、航海長、新屋水雷長などの僅かな士官は生存していたが、砲術長とその部下全員、新屋水雷長の部下全員などが戦死し、操舵装置も破壊された。新屋は艦後部の予備操舵装置を作動させようと混乱した艦内を進んだが、火災のため近づくことが不可能であった。「暁」は制御を失い漂流し、ついに右に傾き転覆沈没した。砲撃を受けてから15分ほど後のことであった。新屋は艦橋から海に飛び込み、朝には周りに三・四十人ほどの乗組員が生存していたが、米軍の上陸用船艇に救助され捕虜となったのは、僅かに18名であった。
[編集] 性能改善工事
友鶴事件、第四艦隊事件により、特型の復元性、船体強度の問題が浮上し、本艦の特Ⅲ型は徹底的な改善工事が行われた。その内容は次のようであった。
- 艦橋構造物の縮小小型化
- 方位盤換装
- 大掃海具・艦上の伝声管撤去
- 艦橋上の測距儀換装
- バラスト搭載
- 上甲板補強
- デッキガータ増設
- B型砲架をC型砲架へ換装
上記の改善工事によって、「暁」の公試排水量は2,400トンを上回り、最大速力は約2ノット低下した。しかし、速力低下以外の問題点は生じなかったといわれている。
[編集] 歴代艦長
[編集] 艤装員長
- 高橋一松 少佐(1932年5月16日-)
[編集] 艦長
- 高橋一松 中佐(1932年11月30日-)
- 橘正雄 少佐(1934年11月15日-1935年11月15日)
- 成田忠良 中佐(1936年2月5日-)
- 佐藤康夫 中佐(1936年12月1日-)
- 篠田勝清 中佐(1937年7月6日-)
- 荘司喜一郎 中佐(1937年10月8日-)
- 小山猛夫 中佐(1938年5月16日-)
- 川島良雄 少佐(1938年8月1日-)
- 青木久治 少佐(1940年11月15日-)
- 高須賀修 少佐(1942年4月13日 – 11月13日戦死)
[編集] 同型艦
- 吹雪型駆逐艦の同型艦
[編集] 参考文献
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
- 佐藤和正 『太平洋海戦2 激闘篇』講談社、1988年。ISBN 4-06-203742-4
- 『丸スペシャルNo.21 特型駆逐艦Ⅲ』潮書房、1978年。
- ドン・ステファンズ著、新屋順子訳『戦争と恵み』キリスト新聞社、2007年。ISBN 978-4-87395-505-6
- 『日本海軍人事手帳(?)』
[編集] 脚注
- ^ 佐藤和正著「太平洋海戦2 激闘篇」によると乱戦のため、被弾、沈没を確認した僚艦は存在せず。従って沈没原因、時間も不明。艦長以下全員戦死、生存者無し。と記述されている。一方「艦長たちの軍艦史」によると敵艦隊の集中砲火をあび、左舷に傾きながら沈没(中略)乗員の大半が戦死。20名余りが翌日海上で米軍に捕らえられた。との記述有り。
- ^ 参考文献『戦争と恵み』10~21頁。訳者・新屋順子は新屋徳治の妻。