悪書追放運動
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悪書追放運動(あくしょついほううんどう)とは、時の支配者にとって都合の悪い内容が書かれている書籍を「悪書」と定義し排除しようとする運動である。歴史的には、「悪書」そのものの排除ではなく、自身に敵対する思想を排除する運動になることが多い[要出典]。
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[編集] 概要
時の支配者が、自身にとって都合の悪い内容の書籍を人民に害悪をもたらすものとして、排除しようとする運動である[要出典]。本来、その書籍が害悪となり得るか否かは人民自身で判断すべきものだが、支配者が人民を煽動しその権力をもって強制的に書籍排除を進めていくものである[要出典]。
[編集] 世界の歴史
世界における悪書追放運動の例は、次のとおり。
- 第二次世界大戦前ナチスは、ドイツ的でない書籍、ユダヤ人による書籍(例:エーリッヒ・ケストナー)等は害悪を垂れ流すだけであり、存在する価値はないとして排除キャンペーンを行った。
- 毛沢東主義を徹底させるため、古い考えの儒教は国家と人民を退廃させるものとして、孔子批判キャンペーンを行った。
- ムハンマドの生涯を題材した小説に対し、イスラム指導者であるアーヤトッラー・ホメイニーはイスラムを冒涜するものとして作家のサルマーン・ルシュディーに死刑宣告を出した。
[編集] 日本
戦前の日本では、時の政権にとって都合の悪い内容であった美濃部達吉の天皇機関説やカール・マルクスの資本論などが悪書追放運動の対象となり、さらにはこれら書籍の単純所持も犯罪として特別高等警察に逮捕されていた。現代の日本では1963年と1965年に総理府が中心となって悪書追放に乗り出し[1] 、「世論」や「教育上」の理由として悪書追放運動が行われている。特に戦後行われた子を持つ親の一部による漫画への一連の激しいバッシングを指すことがある。また、書店売りの成人向雑誌は青少年に悪影響を与えるものとして有害図書に指定され、自治体などから内容や販売方法が厳しく規制されている。さらには未成年者が被写体の写真集を児童ポルノと定義して法規制するなど、芸術への圧力も強めている。
[編集] 漫画バッシング
戦後、日本においては反戦運動が顕在化することとなるが、それは決して国民の総意であったわけではない。多くの漫画雑誌が戦記漫画を掲載し、読者の心を掴んでいった。あるいは漫画家の中にも帝国主義を肯定する者、兵隊に憧れる者は多数いた。それは手塚治虫とて例外ではなく、戦後神風特攻隊を賛美した漫画などを描いた。あるいは戦時中の様子や、日本の現状を生々しく風刺した作品も出る。
そんななか1955年、各地のPTAや「日本子どもを守る会」「母の会連合会」が展開したのが悪書追放運動である。同運動は漫画を校庭で焚書するなどの過激さを増した。さらに図書選定制度や青少年保護育成法案を提唱、実質的な検閲を要求するまでにいたる。出版社側は連名でこれに反発する。
2006年11月5日に放送されたNHKスペシャル『ラストメッセージ第1集「こどもたちへ 漫画家・手塚治虫」』によると、焚書の対象となった中には、手塚治虫の代表作である『鉄腕アトム』までもが含まれていた。手塚が受けた批判の中には、「『赤胴鈴之助』は親孝行な主人公を描いているから悪書ではない。」というものがあったが、手塚が回顧する処によると、その様に主張した主婦は、実際には『赤胴鈴之助』を全く読んだり見たりしておらず、「ラジオでその様に聞いた」というだけの事であった。この様な過激な焚書運動は、後に「漫画の神様」と称されるに至った手塚さえも大きく苦しめる事になった。[1]
1963年、出版社が共同で出版倫理協議会をたて、自主規制を行う事に決めた。
なお、悪書追放運動自体は戦後独特の現象ではなく、明治中期の新聞[要出典]には「近年の子供は、夏目漱石などの小説ばかりを読んで漢文を読まない。これは子供の危機である。」という記事が載り、これによって悪書である小説へのバッシングが発生したりしていた。