徳永昌重
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徳永 昌重(とくなが まさしげ、天正9年(1581年) - 寛永19年6月19日(1642年7月15日))は、江戸時代前期の大名。美濃国高須藩の第2代藩主。初代藩主・徳永寿昌の長男。正室は下間頼龍の娘。官位は従五位下。左馬助。
通称は左太郎。父と共に豊臣秀吉に仕えていた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と共に東軍に与した。慶長16年(1611年)には禁裏の普請助役を務めている。翌年7月10日、父の寿昌が64歳で死去したため、その後を継いで藩主となる。大坂の役などでも武功を挙げて最終的には5万700石まで加増を受けた。
しかし寛永5年(1628年)2月28日、大坂城石垣普請の助役を務めていたときに、作業が遅延していたという理由から改易され、庄内藩酒井家(のちに新庄藩戸沢家)にお預けとなった。寛永19年(1642年)6月19日、配所にて死去した。
長男昌勝は、父に連座して寛永5年3月15日、新発田藩溝口家に預けられたが、慶安元年(1648年)に赦免された。のちに200俵給され、子孫は2200石の旗本として存続している。
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