庄司智久
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庄司 智久 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県 |
生年月日 | 1953年5月30日(55歳) |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1971年 3位 |
初出場 | 1974年 |
最終出場 | 1988年 |
経歴 | |
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庄司 智久(しょうじ ともひさ 1953年5月30日‐)は和歌山県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。
目次 |
[編集] 来歴・人物
新宮高校から1972年、ドラフト3位で読売ジャイアンツ(巨人)に入団。同期には小林繁(1977年沢村賞→1979年阪神タイガースへトレードされ、対巨人8勝を含む22勝をあげ沢村賞・最多勝)がいた。1970年代初頭はV9(1965年~1973年)メンバーの柴田勲、高田繁、末次利光がレギュラーとして絶頂期を迎えており、レギュラーはおろか一軍に定着することも出来ず、二軍生活が続いた。
1976年、イースタンリーグ(二軍)で盗塁王。翌1977年、同リーグで打撃三冠王(首位打者・本塁打王・打点王)と盗塁王の四冠を獲得。1978年、イースタンの成績から一軍に昇格し、主に守備要員として試合に出場した(イースタンで三たび盗塁王になる)1980年、長嶋茂雄監督が積極的に戦力補強を断行したことにより古賀正明・小川清一との2対3の交換トレードで小俣進・田村勲と共にロッテオリオンズに移籍。
移籍1年目にいきなり1番・左翼手の定位置を獲得。この年から2年続けてチームは半期優勝、不動のリードオフマンとして活躍した。1981年にはオールスターゲームにも出場。しかし、1982年以降、持病の皮膚病から出場機会が減少し、1988年に現役を引退した。引退後は、不動産会社や化粧品の販売会社に勤務、現在は警備会社に勤務。
会社員になっても球界との縁を切ることはなくマスターズリーグ・東京ドリームスやモルツ球団にも参加している。また日本プロ野球選手会や日本プロ野球OBクラブが主催する少年野球の指導にも力を入れている。
[編集] 背番号
[編集] 年度別成績
年度 | 所 属 |
背 番 |
試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 盗塁 | 打率 |
1972年 | 巨 人 |
58 | 0 | ― | ― | ― | ― | ― |
1973年 | 0 | ― | ― | ― | ― | ― | ||
1974年 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | .000 | ||
1975年 | 54 | 5 | 1 | 0 | 4 | .200 | ||
1976年 | 0 | ― | ― | ― | ― | ― | ||
1977年 | 0 | ― | ― | ― | ― | ― | ||
1978年 | 38 | 44 | 9 | 1 | 0 | 1 | .111 | |
1979年 | 0 | ― | ― | ― | ― | ― | ||
1980年 | ロ ッ |
35 | 124 | 336 | 87 | 8 | 18 | .259 |
1981年 | 127 | 516 | 151 | 10 | 17 | .293 | ||
1982年 | 86 | 275 | 60 | 2 | 7 | .218 | ||
1983年 | 78 | 268 | 65 | 7 | 7 | .243 | ||
1984年 | 113 | 391 | 100 | 11 | 9 | .256 | ||
1985年 | 93 | 171 | 31 | 4 | 2 | .181 | ||
1986年 | 20 | 24 | 5 | 0 | 0 | .208 | ||
1987年 | 71 | 119 | 30 | 2 | 2 | .252 | ||
1988年 | 15 | 9 | 1 | 0 | 0 | .111 | ||
通算 | 828 | 2124 | 532 | 44 | 67 | .250 |
[編集] 関連項目
読売ジャイアンツ 1971年ドラフト指名選手 |
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1位:横山忠夫 / 2位:谷山高明 / 3位:庄司智久 / 4位:尾形正巳 / 5位:山本昌樹 / 6位:小林繁 / 7位:玉井信博 / 8位:坂東陽司 |