常山城
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常山城 (岡山県) |
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常山全景 |
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城郭構造 | 連郭式山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 上野氏 |
築城年 | 文明年間(1469年~1486年) |
主な城主 | 上野氏、戸川秀安、伊岐真利 |
廃城年 | 慶長8年(1603年) |
遺構 | 曲輪、石塁、空堀、井戸 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯34度31分29.82秒 東経133度53分12.22秒 |
常山城(つねやまじょう)は日本の城。岡山県岡山市・玉野市にまたがる常山にあった山城である。
[編集] 概要
常山城は文明年間(1469年~1486年)に備中の戦国大名・三村氏の姻戚である上野氏によって築かれたとされるが、詳細については不明である。以後、備中上野氏の居城となった。
上野肥前守隆徳が、備中上野氏最後の当主となった。 天正3年(1575年)毛利氏により攻撃を受けた三村氏一族最後の居城が常山城であり、常山城は毛利氏の軍勢に取り囲まれ上野隆徳は城内で自害したが、上野隆徳の妻である鶴姫は、武家に生まれた女としての信念を貫き、城内の侍女三十余名を率い、城外の毛利軍に突撃した。鶴姫は毛利軍の武将である乃美宗勝に一騎打ちを挑むが、乃美宗勝はそれを拒否し、思わぬ奇襲に乱れた軍を建て直した。鶴姫は再度城内に戻り、自害した。
豊臣時代には宇喜多秀家の所領となり、戸川秀安が城主となった。山麓には秀安の墓と位牌所・友林堂(友林は秀安の号)がある。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで宇喜多氏が改易となり、小早川秀秋が当地の領主となるとその家臣の伊岐真利が城主となった。慶長8年(1603年)小早川秀秋が病死し改易となると、池田忠継の所領となり忠継はこの城を廃城とした。
現在、常山に城は現存しておらず、城跡として案内されている。 また山頂付近には、鶴姫や侍女たちを祭る墓が34基あり、『女軍の墓』として紹介されている。
[編集] 観光的な役割
常山山頂からは児島湖・児島湾から岡山市街地までを見渡せ、景観はとてもよい。 登山道・車道も整備されており、頂上まで登ることが可能。(2007年4月現在、山上までの車道は路肩崩壊のため通行禁止となっており、徒歩でしか登頂できない)