安見宗房
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安見 宗房(やすみ むねふさ、? - 元亀3年(1572年))は畠山氏の重臣。河内国守護代。官途名は美作守。別名・直政(なおまさ)。交野城・飯盛山城の城主。
元は、大和国の越智氏家臣であった中村圓賀の子であったが、安見氏の養子に迎えられたと言う。後に河内国の交野城、飯盛山城を領した。1552年(天文21年)に畠山家を牛耳っていた遊佐長教が暗殺されたことに伴い、家臣団の統制に成功した宗房が畠山高政を守護に擁立し、権力を手中にした。そのため高政政権は、安見宗房と丹下盛知に実権を掌握されていた。宗房は1553年(天文22年)、反幕府方・三好長慶が上洛したため、将軍・足利義輝に従い、守護・畠山高政とともに近江に逃れた。永禄年間には狭山池の治水工事を計画している。1558(永禄元)年には主君・高政の排除に成功するが、しかし、永禄2年(1559年)8月、三好長慶の援助を受けた高政の高屋城復帰に伴って守護代の座を追われる。しかし、翌年5月には和睦して守護代に復帰するが、今度は高政と長慶が対立して高政ともども三好軍に追放された。 その後、宗房と遊佐信教は1569年(永禄12年)、高政の弟・昭高を当主に擁立して、再度高政を追放した。その後に信教と袂を分かって織田信長に近づき、臣従して安全を図った。
ちなみに、安見宗房の名は軍記物などの史料では「直政」の名で通っているが、古文書で確認できる名は「宗房」である。