宇津峰山
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宇津峰山(うつみねさん)は、阿武隈高地にある福島県の山。単に宇津峰とも呼ばれる。
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[編集] 概要
郡山市と須賀川市の境に位置する標高677mの独立峰。遊歩道が整備されており、ハイキングには最適な山である。うつくしま百名山に指定されている。また、南北朝時代の城跡遺構でもあり、国史跡に指定されている。
[編集] 歴史
南北朝時代初期に宇津峯山麓を支配していた守山城主・田村宗季(庄司)は奥羽地方の南朝側における有力武将の一人であった。当時の奥羽地方でも他地域の例に漏れず南朝と北朝の総力戦が至るところで発生していた。しかし、奥羽南朝軍の中心的存在であった北畠顕家や結城宗広が戦死あるいは病死すると、宗広の子・結城親朝の寝返りなどもあって情勢は徐々に北朝有利となっていった。1346年、北朝方は南朝方の立て籠もる霊山城などの奥羽各諸城を一斉攻撃し、宇津峯城もこのとき落城する。しかし、観応の擾乱の余波が奥羽にも及んで北朝方が分裂すると、奥羽の南朝軍は勢力を挽回し、1351年の冬にはついに奥羽地方の支配拠点である多賀国府を奪回する。しかし、翌年初めには再び北朝に国府を占領されてしまい、南朝方の北畠顕信は後醍醐天皇の孫・守永王(宇津峯宮)を奉じて再び宇津峯に立て籠もった。宇津峯城は要害堅固であり、また、田村庄司一族の奮戦もあって、北朝方をなかなか寄せ付けなかった。しかし、やはり時に勢いには勝てず、南朝方の拠点も徐々に落とされていく。1353年4月、北朝軍は宇津峯城の一斉攻撃に入り、5月4日、宇津峯はついに陥落する。守永王と顕信は出羽、さらには北奥羽へ逃れ、奥羽地方の南北朝の戦いはこの戦いを最後に事実上終結したのである。また、田村庄司一族も戦いに敗れたことによりその勢力は大幅に失われ、やがては奥羽の歴史舞台から消滅するのである。(戦国時代に三春城を本拠として田村庄一帯を治めた田村氏はこの田村庄司家と同族ではない)
[編集] 関連項目
- 伊達行朝(田村庄司と並ぶ奥羽の南朝勢力の核となった武将)
- 伊達宗遠(行朝の嫡子)
- 霊山
- 日本の城一覧
- 北海道・東北の史跡一覧