大谷石
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大谷石(おおやいし)は軽石凝灰岩の一種。栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材。柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきた。
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[編集] 成分
珪酸・第二酸化鉄・酸化アルミニウム・酸化マンガン・石灰・酸化マグネシウム・カリウム・ソーダなど。
[編集] 成因
日本列島の大半がまだ海中にあった新生代第三紀の前半、火山が噴火して噴出した火山灰や砂礫が海水中に沈殿して、それが凝固してできたものとされている。
[編集] 分布
大谷町付近の大谷石の分布は、東西8km、南北37kmにわたり、地下200~300mの深さまであることが確認されており、埋蔵量は10億トンと推定されている。
[編集] 特徴
- 耐火性にすぐれている。
- 石の重量が軽い。
- 石質が柔らかいため、加工が容易である。
[編集] 用途
主に住宅・倉庫(石倉)・防火壁・貼石・石塀・門柱・敷石・石垣・土止め石(擁壁)等、建築素材として使用される。
近年では、他の建築素材で真似の出来る、防火性等性能・性質面より、真似の出来ないその素材感・質感を建造物に取り入れるために薄くスライスされて壁材や床材として使用されることも多い。
宇都宮周辺では古くから、石蔵をはじめとした建築物の外壁、プラットホーム、石垣や階段、門柱に大谷石が盛んに利用されている。宇都宮駅東口の餃子像や、1932年に建設された宇都宮カトリック教会(通称:松が峰教会)も大谷石造である。
また、その耐火性・蓄熱性の高さからパン釜やピザ釜等、石釜の構造材として用いられる。
[編集] 大谷石にまつわる歴史
- 6-7世紀 : 切石積横穴式石室を持つ古墳に加工が容易な大谷石等が多く用いられる。
- 741年 : 現在の栃木県、下野国分寺・下野国分尼寺の礎石、地覆石、羽目石に使用される。
- 810年 : 大谷寺の本尊(大谷観音)は弘法大師自らが大谷石を彫りを完成させたとされる。
- 1922年 : フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルに使用される。玄関部は現在、博物館明治村に保存されている。
- 1932年 : 宇都宮カトリック教会に使用される。(現存する国内最大の大谷石建造物)
- 1944年 : 大谷石地下採掘場の広大な空間は、陸軍糧秣廠・被服廠の地下秘密倉庫に利用される。
- 1951年 : 坂倉準三設計の神奈川県立近代美術館に使用される。
- 1969年 : 大谷石地下採掘場は年平均気温が8度前後であるため、政府米(古々米)の保管庫として利用される。
- 1979年 : 大谷資料館がオープン。地下採掘場が公開される。
- 1989年 : 2月、宇都宮市大谷町坂本地区にあった昔の採掘場の跡地の地下空間が直径100m、深さ30mにわたり陥没。周囲が住宅地であったことから、住民が避難する騒ぎとなった。
[編集] 採掘
[編集] 手掘り時代
機械化される以前の手掘り時代には、切り出すときにつるはしが利用されていた。手堀りによる採掘法では、五十石(5寸×1尺×3尺)の大きさの石を一本掘るのに4,000回もつるはしを振るったとされる。また1人の1日の採掘量は10本だった。このような手堀による採掘は、採掘方法が機械化された昭和35年ごろまで行われていた。
[編集] 機械化後
大谷石発掘の機械化が考えられるようになったのは、昭和27年からで、機械が大谷全体に普及したのは昭和35年ごろである。機械による採掘法では五十石の大きさの石が1人で1日50本採掘可能である。
[編集] 運搬
手掘り時代には地下の深い採掘場から背負って運び出していた。石塀に使用される石(五十石)1本の重さが70kg程あり、重い石では140kgの石まで1人で1本担ぎ出したとされている。外に運び出された石は馬車や人車(トロッコ)、荷船で遠くまで運ばれた。
現在では、地下の深い採掘場からは、モーター・ウィンチという機械で石が巻き上げられ、トラックや貨車で全国各地に運び出されている。
[編集] 出荷先
東京神奈川:37%、千葉21%、埼玉5%、茨城9%、中京関西9%、その他19%。
年生産高:55万トン。
(それぞれ昭和51年統計)