外城制
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外城制(とじょうせい)は、近世江戸時代に薩摩国・大隅国・日向国諸県郡、及び南西諸島(薩南諸島・琉球諸島のうち大東諸島・尖閣諸島を除く)を支配した薩摩藩(鹿児島藩)の制度[1][2]。1784(天明4)年、この呼称を郷と改めた。
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[編集] 概要
薩摩藩は1871(明治4)年において、人口比で26%と武士率が高く[3]、領内を区分し武士を分散定住させ、軍事ネットワークの一端とし、また、農山漁村や町場の支配の拠点とした。この制度を島津家当主の居城である内城[4]に対して外城(とじょう)といい、近代以後の歴史用語として外城制 という。
外城制は、戦国期島津氏における地頭[5]・衆中制[6]が変質したもので、領内各地の城砦に半農半士の武士の集団が駐屯・居住し、有事に領主・地頭の命令で戦闘員となる役割を担った。戦国末期~織豊期に、外城区域内の複数の城砦に拠っていた形態から、区域内の中心的城砦の山麓の麓(ふもと)集落と呼ばれる城下町へ集住する形態へ移行した。
ひとつの外城は数ヶ村を区域とし、その中心集落の麓や農山漁村主要部・交通の要衝に設置された地頭の仮屋を中心に武家屋敷が存在した。この外城の屋敷に住む武士を、鹿児島城下に住む城下士に対し、外城士[7][8] と呼んだ。外城の行政は地頭の居館である仮屋で行われたが、地頭は寛永以降は鹿児島城下へ定住するようになり[9]、しだいに軍事的意義も薄れていき、実質的には下級吏僚が支配にあたるようになった。
[編集] おもな外城
(※以下に列記した外城(郷)は順不同で同郡(近世旧郡)で記載し、その格付けについてはここでは特に記述しない)
[編集] 薩摩国
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[編集] 大隅国
[編集] 日向国
[編集] 脚注
- ^ 薩摩藩による琉球王国支配体系はこれと異なる
- ^ 支藩である日向国宮崎郡佐土原藩の外城制は、農山漁村主要部や交通の要衝に設置された仮屋を中心としていた
- ^ この時期の全国平均が約5%
- ^ 島津氏の居城は1602(慶長7)年に鶴丸城へ移転
- ^ 敵対した一族や土豪を討滅・追放した後の土地に設置された地頭と呼称される軍事・行政を担当する代官のことを云い、中世荘園における地頭とは異なる
- ^ 地頭を配置した城塞に集住した武士身分戦闘員
- ^ 天明以降は郷士
- ^ 薩摩藩家臣を参照
- ^ 要衝地の長島・甑島は地頭の赴任が継続して行われ、藩境の外城には地頭代を設置したり、中抑という役職を設置した外城も存在した
- ^ 清色城を参照
- ^ 伊作城を参照
- ^ 知覧城を参照
- ^ 加治木城を参照
- ^ 国分城を参照
- ^ 高山城を参照
- ^ 北大隅郡
- ^ a b c d e f 南大隅郡
- ^ 都城を参照
- ^ 綾城を参照
- ^ a b c 南諸県郡
- ^ 志布志城を参照