増山正修
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増山 正修(ましやま まさなお)は、江戸時代の大名。伊勢長島藩の第7代藩主。長島藩増山家8代。
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時代 | 江戸時代後期(幕末)から明治時代 | |||
生誕 | 文政2年12月7日(1820年1月22日) | |||
死没 | 明治2年1月18日(1869年2月28日) | |||
別名 | 哲二郎(幼名) | |||
戒名 | 護心院殿雪顛機範大居士 | |||
官位 | 従五位下、対馬守 | |||
藩 | 伊勢長島藩主 | |||
氏族 | 酒井氏→増山氏 | |||
父母 | 父:酒井忠器 養父:増山正寧 |
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兄弟 | 酒井忠発、増山正修、市橋長和、 米津政易、米津政明、酒井忠寛 |
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妻 | 正室:増山正寧の娘・勝子(法華院) | |||
子 | 4男5女:鎌五郎、鉄次郎、光之助、 増山正方、八十子(増山正治正室)、 養子:増山正同 |
文政2年(1819年)12月7日、出羽庄内藩主・酒井忠器の次男として生まれる。第6代藩主・正寧の嫡子・増山正直が早世したため、長島藩婿養子となる。天保13年(1842年)、正寧の死去により後を継ぎ、藩主となった。1847年9月には日光祭祀奉行を務めている。
幕末期に入ると佐幕派の立場を貫く。元治元年(1864年)からの長州征伐では京都・大坂の警備を担当し、翌年4月には若年寄に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも、最初は幕府側に与して抵抗の姿勢を示していたが、隣藩の伊勢亀山藩をはじめ、伊勢国内の藩のほとんどが新政府に帰順したため、涙ながらに新政府に帰順し、藩軍を奥羽や北越に出兵させることになった。しかし幕府側に協力していた姿勢を新政府側から警戒され、このとき赤報隊の相楽総三によって軍資金という名目で3000両を強奪されたという。
正修も正寧と同じく、4男5女と多くの子女に恵まれたが、廃嫡された正方と5女・八十子以外は全て早世するという不幸に見舞われた。このため明治2年(1869年)1月18日に正修が死去した後は、養嗣子の正同が後を継ぐこととなった。享年51。
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