吹雪 (吹雪型駆逐艦)
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艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1926年6月19日 |
進水: | 1927年11月15日 |
就役: | 1928年8月10日 |
その後: | 1942年10月11日戦没 |
除籍: | 1942年11月15日 |
性能諸元 | |
排水量: | 基準:1,680t 公試:1,980t |
全長: | 118.5メートル |
全幅: | 10.36メートル |
吃水: | 3.19メートル |
機関: | 艦本式タービン2基2軸 艦本式ロ号専焼缶4基 50,000馬力 |
最大速: | 38.0ノット |
航続距離: | 5,000浬/14ノット |
兵員: | 219人 |
兵装: | 12.7cm50口径連装砲×3 7.7mm機関砲(機銃)×2 61cm魚雷発射管×9 他 |
吹雪(ふぶき)は、かつて大日本帝国海軍に所属した一等駆逐艦。重武装(砲塔式12.7cm連装砲3基と61センチ3連装魚雷発射管を中心に配備し9本の予備魚雷も搭載した)で凌波性に優れた本型の出現は、当事の列強海軍に衝撃をあたえた。特型駆逐艦吹雪型のネームシップで、この名を持つ日本海軍の艦艇としては2隻目である(初代は春雨型駆逐艦の「吹雪」)。第四艦隊事件で艦体強度が問題となり改装されている。
目次 |
[編集] 艦歴
舞鶴工作部で建造され1928年(昭和3年)8月10日に竣工した。建造中は、「第三十五号駆逐艦」という名称で、8月1日に「吹雪」と改称された。
太平洋戦争開戦時までは、主に中国方面で活動した。1941年12月には、マレー半島上陸船団護衛、ボルネオ島攻略戦、クチン攻略作戦船団護衛に従事した。1942年1月にはエンドウ沖海戦、3月バタビヤ沖海戦・北部スマトラ掃蕩作戦、4月ベンガル湾機動戦に参加後、呉に帰投。6月のミッドウェー海戦では主力部隊に加わった。8月以降ガダルカナル島への輸送作戦に5回参加した。10月11日、第6戦隊の重巡3隻とともにブーゲンビル島ショートランドを出撃しガダルカナル島砲撃に向かいサボ島沖海戦に参加、米巡洋艦隊の夜間レーダー射撃により、旗艦「青葉」大破、「古鷹」沈没(12日)、「吹雪」は敵艦隊に最も近づいていたために集中砲撃を浴び、21時53分弾薬庫誘爆により爆沈。山下艦長以下220名が戦死、生存者は僅か8名であった[1]。11月15日、除籍。
[編集] 歴代艦長
[編集] 艤装員長
- 横山徳治郎 中佐(1928年2月1日就任)
[編集] 艦長
- 横山徳治郎 中佐(1928年8月10日就任)
- 石戸勇三 中佐(1928年12月10日就任)
- 樋口通達 少佐(1929年11月30日就任)
- 佐藤慶蔵 中佐(1930年10月31日就任)
- 直塚八郎 中佐(1932年12月1日就任)
- 平井泰次 少佐(1933年11月15日就任)
- 植田弘之介 中佐(1935年11月9日就任)
- 牟田口格郎 中佐(1936年7月1日就任)
- 藤田友造 少佐(1937年11月15日就任)
- 山田鉄夫 少佐(1938年2月4日就任)
- 脇田喜一郎 中佐(1938年12月15日就任)
- 奥山鎮雄 少佐(1939年10月10日就任)
- 山下鎮雄 少佐(1940年10月15日就任)
[編集] 同型艦
- 吹雪型駆逐艦の同型艦
[編集] 参考文献
- 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年) ISBN 4-7698-1246-9
[編集] 脚注
- ^ 佐藤和正著「太平洋海戦 激闘篇」のサボ島沖海戦の項で「吹雪」の戦死者220名、軽傷8名がガダルカナル島に漂着との記述有り。『艦長たちの軍艦史』によると艦長以下226名戦死。