十朱久雄
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十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985年12月18日)は、日本の俳優。女優・十朱幸代の父でもある。祖父は落語家の三遊亭遊三。本名は小倉久雄。
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[編集] 来歴・人物
1908年9月8日、東京府東京市日本橋区小網町(現・東京都中央区日本橋小網町)に生まれる。京華中学校、法政大学予科を経て、1933年に法政大学経済学部を卒業する。在学中の1928年に劇団結成に参加、また大学の先輩だった三島雅夫の紹介で知った金杉惇郎や、フランスから帰国したばかりの長岡輝子が結成したテアトル・コメディに参加、1931年には、舞台『ジャン・ド・ラ・リュンヌ』で初出演する。テアトル・コメディは当時としてはフランス現代劇中心の劇団で、森雅之、松山崇、杉浦幸雄、飯沢匡らが参加していた。1936年にテアトル・コメディ解散後、東宝新喜劇、ムーラン・ルージュと所属団体を転々するが、1937年、父の意向で奈良の繊維会社に事務員として入社。1939年に結婚し、芸能界から完全に縁を断っていた。戦後になると、1946年にNHK大阪(当時はJOBK)のドラマ出演して芸能界復帰。1950年には東京に戻り、文学座に客員として入り、『娼婦マヤ』の舞台に立つ。1951年に松竹の『自由学校』で映画初出演、それ以降、大きく後退した額が特徴のユニークな脇役として活躍。軽妙洒脱な中年の都会人を演じさせたら天下一品と評される。溝口健二、小津安二郎、今井正、成瀬巳喜男、久松静児ら多くの巨匠に起用され、特に溝口監督からはその姉が嫁いだ松平忠正子爵に似ているということで、ことさら目をかけられた。テレビでは円谷作品の『快獣ブースカ』をはじめ、『夜ふけのブランコの音』、『私は貝になりたい』、 『丸出だめ夫』、『サインはV』、映画では『東京物語』や『ハレンチ学園』 などの数多くの作品に出演した。1985年12月18日、肺がんのため亡くなった。77歳だった。
[編集] 出演作品
[編集] 映画
- 自由学校(松竹、1951年、渋谷実監督)
- お茶漬の味(松竹、1952年、小津安二郎監督)
- 東京物語(松竹、1953年、小津安二郎監督)
- 山の音(東宝、1954年、成瀬巳喜男監督)
- 名もなく貧しく美しく(東宝、1961年、松山善三監督)
- 妻として女として(東宝、1961年、成瀬巳喜男監督)
- 女の中にいる他人(東宝、1966年、成瀬巳喜男監督)
- ひき逃げ(東宝、1966年、成瀬巳喜男監督)
- 乱れ雲(東宝、1967年、成瀬巳喜男監督)
- ハレンチ学園(日活、1970年)
- トラ・トラ・トラ!(アメリカ映画、1970年)