北畠顕信
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北畠 顕信(きたばたけ あきのぶ、? - 天授6年/康暦2年?(1380年?))は、南北朝時代の武将。北畠親房の次男、長兄に北畠顕家、弟に北畠顕能。母は春日局といわれる(江戸時代の春日局とは別人)。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称した。
1336年(延元元年/建武3年)に伊勢において挙兵し、後醍醐天皇の遷幸を援助、1338年(延元3年/暦応元年)兄の死後、代わって鎮守府将軍として陸奥国に赴こうとしたが、途中で暴風にあって吉野に戻る。翌年、再び陸奥に向かい、国府多賀城の功略を試みる。一時占領するが、結局武家方の反撃を受け失敗。霊山城を拠点に活動する。1347年(正平2年/貞和3年)霊山城が落城。宇津峰城に移る。これ以後は生死は明らかでない。吉野に帰還して右大臣を務めたとも九州に下向し、懐良親王を補佐したとも言われる。