兵糧
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兵糧(ひょうろう・兵粮)とは、戦争時における軍隊の食糧のこと。日本においては主食である米について論じられる事が多く、兵糧米(ひょうろうまい・兵粮米)などとも呼ばれている。米の他にも塩や大豆(馬の食糧(馬糧)としても重要視された)なども含まれている。
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[編集] 上代
古来から従軍する兵士には兵糧携帯の義務があり、律令法においては糒6斗及び塩2升の自弁が定められていたが、実際には60日分に過ぎず、かつ大量の兵糧携帯は場合によっては行軍の妨げになる可能性もあった。そこで、蝦夷討伐に際しては東国からの調達が許され、『延喜式』においては長門国の公出挙稲4万束が兵粮料として充てることが定められている。また、実際の軍事行動の際には地元有力者からの献納や徴発に頼ることが多かった。
[編集] 中世
中世以後は一国平均役の一環として徴収される例が見られ、特に源平合戦においては平家・源氏双方が兵粮米の賦課を行っている。だが、現地における兵粮米の賦課・徴発は兵士による濫妨を招く可能性があった。文治元年(1185年)に源頼朝が守護・地頭の設置求めて文治の勅許を受けると、同時に荘園・国衙領の田1段から兵粮米5升を徴収する権利を得た。だが、国司・荘園領主達の反発が強く、翌年には撤回された。
[編集] 南北朝-戦国時代
南北朝時代に入ると、北朝(室町幕府)は 兵粮料所(半済令参照のこと)を、南朝は朝用分を設定して兵糧確保にあたった。室町幕府や守護大名の職制では、御蔵奉行が兵糧確保の任務にあたっていたが、 戦国時代には、平時より蔵入地を設置して兵粮確保に力を注ぎ、戦時に際して小荷駄奉行とその下に小荷駄隊を設けるのが一般的となった。
[編集] 近世
豊臣政権によって兵農分離が進められると、武士が兵士としての役目を行うことが原則となるとともに兵糧携帯の義務が廃されて、代わりに兵糧の調達・運搬は農民ら領民の義務とされた。また、大名は戦時に備えてあらかじめ米や塩・味噌などの調達・輸送計画を立案してこれに基づいた兵糧調達・購入が行われ、円滑な軍隊動員が行われるようになった。これと同時に現地における兵糧調達は原則として禁止されて濫妨や刈田は軍律によって厳しく禁じられることになった。