免田事件
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免田事件(めんだじけん)とは1948年に起こった冤罪事件。四大死刑冤罪事件の一つである。
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[編集] 概要
1948年12月30日午前3時頃、熊本県人吉市で祈祷師夫婦が殺害され、娘二人が重傷を負わされ、現金が盗まれた。翌1949年1月13日、警察は熊本県球磨郡免田町(現:あさぎり町)在住の免田栄(当時23歳)を、玄米を盗んだ罪で別件逮捕し、同月16日には殺人容疑で再逮捕した。この3日間余りの間、警察は免田に拷問と脅迫を加え、自白を強要させていた。同月28日に強盗殺人罪で起訴。免田は第一審の第三回公判で自白は拷問で強要されたものであり、事件当日には特殊飲食店の女性と遊興しておりアリバイがあるとして無罪を主張。
警察はアリバイの捜査を行うが、アリバイ証人に対し「一緒にいたのが翌日」というように証言を誘導させた。また、検察は証拠品である凶器の鉈、免田が犯行時に着ていて血痕が付着していたとされる法被・マフラー・ズボンなどを廃棄するという証拠隠滅とも思える行動をとっている。
[編集] 判決
1950年3月23日、熊本地裁八代支部は死刑判決を言い渡す。免田は控訴するが1951年3月19日に福岡高裁で控訴が棄却される。更に免田は上告するが、1952年1月5日に最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。
[編集] 再審
1968年、国会に死刑囚に対する再審改正法案が提出されるも翌年の1969年に廃案。その代わり、当時の法務大臣である西郷吉之助が、GHQ占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対して特別恩赦を約束(関連項目参照)。免田氏も特別恩赦が検討されたが実現せず。
免田は再審請求を行うが、第5次請求まで全て棄却された(第3次請求は地裁では再審の開始が決定されたものの、検察の即時抗告により高裁で取り消された)。そして第6次再審請求が承認され、1979年9月27日に再審が開始される。
再審ではアリバイを証明する明確な証拠が提示されたこと、検察側の主張する逃走経路に不自然な点が見受けられたことなどが指摘され、1983年7月15日、発生から34年6ヶ月後、無罪判決が言い渡された。
刑事補償法に基づき、死刑確定判決から31年7ヶ月の拘禁日数12,559日に対して免田に9,071万2,800円の補償金が支払われた。
[編集] その後
無罪が確定されたにもかかわらず、その後の免田に対する批判が続いた。当時としてはけた違いの多額の補償金を何に使ったとか、出所後の行動(女性関係など)を週刊誌が報道したりした。
また落語家立川談志がラジオ番組において「ぜったいやってないわけないんだよね」と話し、後に謝罪する事件が起きた。
2007年9月27日放送の「午後は○○おもいッきりテレビ」内の「きょうは何の日」のコーナーで、現在の免田のインタビューが放送された。現在は人権の大切さを訴える講演を全国各地で行っている。
週刊朝日など数社の週刊誌に、「あの人は今」のようなコーナーで写真つきインタビューが掲載された。刑事補償金の半額以上を弁護団や支援団体に謝礼として渡したこと、拘置所にいた間は年金に加入できず現在も年金は受け取ってない状態であること、無罪確定後に結婚した妻と2人で細々と暮らしていること、ほぼ毎日釣りに出かけていること、無罪確定から数十年を経た現在も社会には偏見があり、なかなか一般の人との付き合いは難しいことなどを語っている。これは地元では特に根強く、公共の場で冤罪であると発言することすらはばかられる事もある。なお、免田氏は拘置所から出所後、いったん地元に帰ってきて歓迎されたが、真犯人が不明なことや巨額の補償金を受け取ったことなどで、地元で平穏に暮らせず、他の市に引っ越した。
ある死刑廃止運動の会合で免田は佐木隆三に出会う。佐木の著書「曠野へ―死刑囚の手記から」に登場した実在の死刑囚、川辺敏幸と同じ拘置所だったこと、さまざまな死刑確定囚を見てきたが、川辺ほど竹を割ったような性格の男はいなかったことなど発言している。また川辺も佐木に、拘置所のソフトボール大会で免田と楽しんだ思い出を語っていた。
[編集] 関連書籍
- 「死刑囚の告白」免田栄
[編集] 関連項目
- 四大死刑冤罪事件
- 1969年に特別恩赦が検討された他の事件
- 菅野村強盗殺人・放火事件
- 財田川事件
- 帝銀事件
- 福岡事件
- 市川賭博仲間殺人事件