仲井眞弘多
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仲井眞 弘多(なかいま・ひろかず、1939年8月19日 ‐ )は、日本の官僚、財界人及び政治家、沖縄県知事。大阪府大阪市東成区出身。
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[編集] 経歴
[編集] 幼少~官僚時代
1945年(昭和20年)に空襲を逃れて家族で大分県南海部郡明治村(現在の佐伯市)に疎開。翌1946年(昭和21年)、両親の出身地である沖縄県那覇市に移住。那覇市立開南小学校、那覇市立上山中学校、那覇高等学校を卒業。成績がトップクラスで特に理数系が得意であった仲井眞は、自動車設計士を目指す。そこで東京大学工学部進学時に国費・自費沖縄学生制度を使い上京した。
1961年(昭和36年)に大学卒業後、当時の通商産業省に技官として入省。沖縄開発庁沖縄総合事務局通商産業部長、工業技術院総務部技術審議官を歴任する。
[編集] 帰郷後
1990年(平成2年)に当時の大田昌秀知事のもと、沖縄県副知事に就任。退任後、沖縄電力の社長や会長を歴任した。
2006年(平成18年)の沖縄県知事選に、自民・公明の推薦を受け出馬し、野党8党の推薦・支持を受けた糸数慶子を破り初当選した。各党の折衝に時間を取られた糸数の機先を制し、さらに糸数を推薦した自由連合の徳田毅代表が離党して仲井眞支援に回るなど、野党の切り崩しに成功したといえた。
しかし、保守派であるが仲井眞は沖縄特有の問題(基地問題や歴史問題など)については前任者の稲嶺恵一同様、政府与党とは一線を画して地元の立場を強く主張し、譲れないものは譲れないという姿勢を見せている。『産經新聞』や『日本経済新聞』が選挙後の社説で、仲井眞の当選を喜ぶとともに仲井眞に在日米軍基地問題で政府に従うよう釘を刺したが、仲井眞は辺野古基地問題に関して、『(掃海母艦を出すのは)銃剣を突きつけているような連想をさせ、強烈な誤解を生む。防衛省のやり方はデリカシーに欠ける』と発言し、政府の強硬策を批判した。
2007年6月23日、県知事として「沖縄全戦没者追悼式」に出席したが、翌24日、軽い脳梗塞で緊急入院した。入院及び自宅静養で2週間程度公務を休む必要があると診断されたが、既に追悼式の段階で体調の不良を訴えていたといわれ、追悼式には医師の立会いのもとで出席した。7月9日に公務復帰。
2007年9月には、文部科学省が公立高校の歴史教科書から旧日本軍の集団自決強制の記述を削除した問題で起きた県民の抗議集会に参加し、政府の対応を「遺憾である」と表明。2008年2月11日に沖縄駐留アメリカ軍兵士が中学3年の少女に対する暴行・強姦容疑で逮捕された件で、記者団に対して前持って用意されたメモに沿う形で一連の事件に「強い怒り」を表明したが、普天間飛行場の機能をキャンプ・シュワブ沿岸部へ移設する計画には全く影響しないと語った。
[編集] 名前表記について
正式には「仲井眞」表記が正しいが「仲井真」と表記される事も多い。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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7代 - |
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