五島盛繁
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時代 | 江戸時代後期(幕末) | |||
生誕 | 寛政3年9月26日(1791年10月23日) | |||
死没 | 慶応元年4月19日(1865年5月13日) | |||
別名 | 繁千賀(幼名) | |||
戒名 | 泰寿院殿法蓮崇徳大居士 | |||
墓所 | 東京都文京区本駒込の吉祥寺 | |||
官位 | 従五位下、弾正少弼、大和守 | |||
藩 | 肥前福江藩主 | |||
氏族 | 五島氏 | |||
父母 | 父:五島盛運、母:里世(西村氏) | |||
兄弟 | 豊次郎、千熊、五島盛繁、青方運善 五島運広、五島運綱 |
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妻 | 正室:松平直恒の娘・磯子 側室:登勢(木村氏) |
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子 | 五島盛成、五島盛保、昌子、五島忠泰 松平近章 |
五島 盛繁(ごとう もりしげ)は、肥前福江藩の第9代藩主。五島氏の第29代当主である。
寛政3年(1791年)9月26日、第8代藩主・五島盛運の3男として生まれる。長兄の豊次郎、次兄の千熊が早世したために世子に指名され、文化3年(1806年)3月に元服する。文化6年(1809年)に父が死去したため、家督を継いで第9代藩主となった。
父が進めていた外国船に備えての海防強化のため、財政支出強化策をとった。しかしすでに財政難の福江藩にそのような余裕があるはずも無く、領内の商人から多額の献銀を求める代わりに武士の身分を売買するという方法をとって資金集めを行なったのである。このため、「金あげ侍」という武士が生まれるようになった。このために商人が藩政に完全に介入するようになり、やがて家格よりも個人的な才能を重視するほうがよいという提言もあって序位昇進制を採用している。文政4年(1821年)にはこの政策の一環により、藩校である育英館が創設された。
しかし財政難は解消されず、領民の暮らしは苦しくなる一方で、文政8年(1825年)にも三尾野で百姓一揆が起こるなどして藩政は混乱続きだった。文政12年(1829年)12月24日、家督を長男の五島盛成に譲って隠居する。慶応元年(1865年)4月19日に死去。享年75。
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