九六式二十五粍高角機銃
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制式名 | 九六式二十五粍高角機銃 | |
砲身長 | 1.5m(60口径) | |
重量 | 785kg(単装) 1100kg(連装) 1800kg(三連装) |
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口径 | 25mm | |
初速 | 900m/秒 | |
最大射高距離 | 5,500m | |
有効射高距離 | 3,000m | |
最大発射速度 | 260発/分 | |
実用発射速度 | 120発/分 | |
給弾方式 | 15発入り箱型弾倉 | |
俯仰角 | -10~+85度 | |
使用弾種 | 対空・対艦両用弾 焼夷榴弾 曳光弾 徹甲弾 |
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使用勢力 | 大日本帝国海軍 | |
製造数 | 約33,000門 |
九六式二十五粍高角機銃(きゅうろくしきにじゅうごみりこうかくきじゅう)とは、第二次世界大戦中に日本海軍で使用された固定式対空機関砲。1936年(皇紀2596年、昭和11年)に採用され、様々な艦艇に幅広く搭載された。
[編集] 概要
九六式二十五粍高角機銃はフランスのオチキス(ホチキス)製25mm機関砲を基にして1935年(昭和10年)に開発された。艦艇搭載用の対空機関砲としては他にイギリスのビッカース製2ポンド対空砲(毘式四十粍高角機銃、口径40mm)があったものの、こちらは射撃速度と射撃精度に劣っていた。
こうして翌1936年に“九六式二十五粍高角機銃”として制式化されるに至った。九六式は採用年(皇紀)の下2桁、口径が25mmであるにもかかわらず機銃と称するのは、海軍では口径40mm以下の連発可能な兵器を“機銃”と称していたからである。陸軍もこの機銃を「海式機関砲」と呼称して少数を採用した。
二十五粍機銃には単装、連装、三連装の3つのバリエーションがあり、単装は銃架に乗せて一人だけで全ての操作が可能。連装・三連装については銃架の右側にある座席に左右の調整を担当する旋回手、左側にある座席には俯仰角の調整および発射を担当する砲手が座って操作する。艦艇に搭載された三連装機銃については、大和型戦艦に見られるようにシールドがつく場合があった。これには敵弾を防ぐための防弾板を射手の前に立てたシールドと、主砲発射の際に発生する爆風から身を守るために機銃を覆うように付けられた非防弾のシールドがあり、大和型戦艦は後者を採用した。
生産が始まると二十五粍機銃は文字通り海軍の主力対空機関砲として戦艦、航空母艦から輸送艦等の補助艦艇に至るまで様々な艦艇に搭載された。また陣地防空用として陸上にも設置された。戦争が激化し、敵航空機の脅威が高まると艦艇への搭載数は増加する傾向にあった。
後年、九六式二十五粍高角機銃に対し我々が一般的に与える評価は必ずしも高いものではない。戦時中から現場から二十五粍機銃の射程距離の短さに不満が出た。戦艦武蔵艦長の猪口敏平も、遺書に「機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。…申し訳なきは対空射撃の威力をじゅうぶん発揮し得ざりし事。」と書き遺している。海軍砲術学校は1945年(昭和20年)5月に「敵機に致命傷を与えられる有効射程は1500m程度」と発表。また、弾倉を用いて給弾する方式も持続射撃が困難であるとの声が出た。
また、二十五粍機銃の評価の低さを射撃指揮装置の能力不足に求める考えも有る。日本が対空砲群の管制に用いていた九五式射撃指揮装置は移動目標への従動射撃用に機械式リード角計算装置を組み込んでいたが、照準にはまず目標諸元を割り出して照準線を調整し、それを目標に合わせるという手間が掛かるものであった。一方、米軍の射撃指揮装置MK.51は、ジャイロ式自動照準装置により見越し角をはじき出すことができ、その見こし角にしたがって目標を人力で追尾するという簡単なものであった。
こうした状況にもかかわらず、さしたる手直しもなされることなく二十五粍機銃は終戦まで生産が続けられ、最終的な生産数は約33,000門にも上る。また、アメリカ軍の反攻作戦が開始されると、南方の島々ではこれらの機銃を敵の上陸が予想される砂浜や湾が見渡せるような場所に設置されることが多くなった。これは対空用途とは別に、島に向かって来る上陸用舟艇やLVT等への対舟艇防護射撃に用いられ、戦果をあげた。硫黄島の戦いでも二十五粍機銃はアメリカ軍戦車などへの対地射撃で威力を発揮し、アメリカ兵から恐れられた。
[編集] その他
2006年に公開された邦画『男たちの大和/YAMATO』では、主人公が対空機銃要員ということもあり、戦闘シーンのほとんどが対空機銃座周辺の視点で描かれており、当時の対空戦闘の様子が伺える。
実戦で本銃が使用されている様子は、軽巡大淀艦上にて撮影された、捷一号作戦における対空戦闘の記録フィルムなどが現存しており、今日でも映像を通して観察することができる。