ルイス・モンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オリンピック | ||
---|---|---|
男子 サッカー | ||
銀 | 1928 アムステルダム | サッカー |
ルイス・モンティ | ||
---|---|---|
名前 | ||
本名 | ルイス・フェルナンド・モンティ | |
愛称 | ドブレ・アンチョ | |
カタカナ | ルイス・モンティ | |
ラテン文字 | Luis MONTI | |
基本情報 | ||
国籍 | アルゼンチン イタリア |
|
生年月日 | 1901年5月15日 | |
出身地 | ブエノスアイレス
|
|
選手情報 | ||
ポジション | MF
|
|
代表歴 | ||
出場 | 16(アルゼンチン) 18(イタリア) |
|
得点 | 5(アルゼンチン) 1(イタリア) |
|
ルイス・フェルナンド・モンティ(Luis Fernando Monti、1901年5月15日 - 1983年9月9日)は、アルゼンチン出身のサッカー選手。アルゼンチン代表としてFIFAワールドカップ 1930年大会に出場したのち、イタリア代表として1934年大会に出場して優勝した。
目次 |
[編集] プレイスタイル
モンティは無骨で無慈悲な選手だったが、強力なタックルに優れた技術を持っていた。彼は当時流行のメトドシステム(2-3-5フォーメーションの変化形)において、攻撃的なセンターハーフ(今日の守備的ミッドフィルダーに近い役割)としてプレイした。チームが攻勢の時にはプレイメーカーとなり、守勢の時には相手センターフォワードのマークについた。ピッチ上の広い範囲をカバーするプレイスタイルから、ドブレ・アンチョ(Doble ancho, 二倍の幅)と愛称をつけられた。
[編集] アルゼンチンでの経歴
ボカ・ジュニアーズでプレイしていた1924年に初めて代表チームに招集された。1927年コパ・アメリカで優勝、1928年アムステルダムオリンピックで銀メダルを獲得。1930年ワールドカップ・ウルグアイ大会では4試合すべてに出場した。モンティは準決勝のアメリカ合衆国戦で2ゴールを挙げ、アルゼンチンは決勝に進出したが、ウルグアイに2-4で敗れた。
[編集] イタリアでの経歴
1931年にイタリアのビッグクラブユヴェントスと契約を結んだ。当初、彼は太りすぎて本調子ではなかったが、一ヶ月の個別練習を経て調子を取り戻すと、1932年から1935年まで4シーズン連続のリーグタイトル獲得に貢献した。セリエAでは通算225試合に出場して19ゴールを挙げた。
1932年にイタリア代表に招集され、ホスト国として迎えた1934年ワールドカップ・イタリア大会で優勝した。モンティは再試合を含む5試合すべてに出場した。
大荒れに荒れた事によって記憶される1934年11月14日のイングランドとの親善試合「バトル・オブ・ハイベリー」では開始わずか2分で足を折られて退場させられた。
[編集] 所属クラブ
- CAウラカン( アルゼンチン) 1919-1921
- CAサン・ロレンソ( アルゼンチン) 1921-1927
- ボカ・ジュニアーズ( アルゼンチン) 1927-1931
- ユヴェントス( イタリア) 1931-1938
[編集] 代表歴
- 1924-1930 アルゼンチン代表(16試合5得点)
- 1927年 コパ・アメリカ(優勝)
- 1928年 アムステルダムオリンピック(準優勝)
- 1930年 FIFAワールドカップ・ウルグアイ大会(準優勝、4試合2得点)
- 1932-1936 イタリア代表(18試合1得点)1932-1936
- 1934年 FIFAワールドカップ・イタリア大会(優勝、5試合0得点)